吉備塚

【きびづか】

奈良教育大学のキャンパス内にある、直径約25m、高さ3mの古墳である。吉備塚という案内板がなければ、おそらくただの小さな丘の一部であるとしか見えないだろう。考古学的な発掘調査が平成になってからおこなわれ、平成16年(2004年)には2つの木棺と太刀が見つかり、6世紀頃の古墳であるとされている。

吉備塚という名は、この古墳が吉備真備の墓であるとされてきたことによる。江戸時代の古文書に名前が残されており、既にこの頃には定着した伝承だったと推測される。そしてこの伝承と共に、祟りの噂が常につきまとっていた。江戸時代の頃は田んぼの中にあった墳丘であるが、触れると祟ると言われた。その噂はさらに明治時代にまで残り、明治42年(1909年)にこの地に陸軍第53歩兵連隊が駐屯した時も、塚を崩そうとすると病人が出るなど異変が起こったために、結局そのまま放置され続けたのである。平成の発掘調査で棺が出土したことで、この塚が全くの未盗掘であったことが実証され、祟りの伝説が延々と言い伝えられてきたことを裏付けた格好になったと言えるだろう。

<用語解説>
◆吉備真備
695-775。備中国の生まれとされる。遣唐留学生として17年間唐にあって学問を修める。帰国後は聖武天皇の下で昇進を重ねる。藤原仲麻呂が政権を握ってからは冷遇されるが、乱によって仲麻呂が排除されると、再び中央政界に復帰。最終的に地方出身者として異例の右大臣にまで登りつめた。高齢により右大臣職を辞した後の様子は伝わっておらず、どこで死去したかも不明。

◆陸軍歩兵53連隊
奈良の高畑に駐留するのは明治42年(1909年)からだが、大正15年(1925年)に軍縮によって廃止。その後は同地には京都から歩兵第38連隊が移駐する。資料によっては53連隊と38連隊のいずれかが記載されていて混乱があるが、実際にはどの連隊もこの地に駐留していた。

アクセス:奈良県奈良市高畑町 奈良教育大学構内