隼人塚/止上神社

【はやとづか/とがみじんじゃ】

日向国から今の鹿児島地方が分離されたのは8世紀初め。大宝2年(702年)に唱更国(後の薩摩国)、さらに和銅6年(713年)に大隅国がそれぞれ分離された。これは天武天皇以降強力に推し進められた律令国家体制下で、中央政権が統治を強めたことが背景にある。しかしこれと並行して、先住の民であった熊襲・隼人による“反乱”が頻発した。特に激しい戦いとなったのが、養老4年(720年)に起こった“隼人の反乱”である。

蜂起した数千人に及ぶ隼人は、大隅国の国司・陽侯史麻呂を殺害、さらに7ヶ所の砦に籠城して抵抗を続けた。それに対して朝廷は大伴旅人を大将として軍を派遣、九州内で1万もの兵を集めて鎮圧を試みた。そして約1年半を掛けて全ての砦を落とすに至った。記録によると、隼人側の戦死者と捕虜は1400人に上り、戦死者の遺骸はまとめて埋められたとされる。

この隼人族の遺骸が葬られた場所が隼人塚である。国の史跡とされる隼人塚は、JR日豊本線の隼人駅から約500m程離れた線路沿いにある。現在は中央に3基の石塔と、四方に四天王石像が置かれた状態で保存されている。この場所を“隼人塚”と紹介したのは、鹿児島神宮宮司であった桑原公幸であり、明治36年(1903年)のことである。古来よりおこなわれる鹿児島神宮の神幸祭である“隼人浜下り”ではこの場所で隼人舞の奉納があり、特別な場所であるとされてきた。ただ平成6年(1994年)から実施された遺跡調査によると、この時発掘された石塔や石像(現在整備されて置かれているもの)は、鹿児島神宮の戒壇所であった正国寺にあったもので、平安時代後期の作ではないかとの説が有力になっている。

一方で“隼人の首塚”としてひっそりと残されている場所がある。『三国名勝図会』の記述では“止上神社の南西に小さな森になっている場所が隼人の首を埋めた塚”として紹介されている。現在では一面田が広がる場所にぽつんと碑が立つだけである。

止上神社は、島津氏初代の忠久が「七社」として領内で特別に崇敬した神社の第三社に挙げる神社であり、日向三代の夫婦神を祭神とする。しかし社伝では隼人との戦乱にまつわる伝説が残っている。景行天皇の御代、隼人が反乱を起こしたため天皇が親征したが、その戦いの際にこの神社の祭神が6羽の大鷹に化身して助勢をして乱を鎮めたとされる。さらに江戸時代になる頃まで「王の御幸」と呼ばれる大祭がおこなわれており、隼人の霊が人々の災いをなすため、それを鎮める祭とされた。正月におこなわれるこの祭では、初猟で獲った猪の肉を33本の串に刺して隼人塚の前にお供えしたとも伝わる。

<用語解説>
◆隼人
熊襲と共に九州南部に定住する人々(先住民)を指す。伝説としては、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の長子である火照命(海幸彦)が祖先とされ、弟である彦火火出見命(山幸彦)との争いに敗れ服従した者の末裔とされる。
歴史的には天武天皇11年(682年)に天皇の下へ朝貢(服属)する記録が残る。しかしそれ以降も、養老4年(720年)の反乱によって鎮圧されるまで度々抵抗し続けた。

◆鹿児島神宮
大隅国一之宮。かつては「大隅正八幡宮」と称する。主祭神は彦火火出見命と豊玉姫命。欽明天皇5年(544年)に八幡神がこの地に垂迹したとされる。和銅元年(708年)に現在地に遷宮。
豊前国一之宮の宇佐神宮と八幡宮の正統社の座を争う。鹿児島神宮では、八幡神が垂迹したのは当地であり、その後宇佐へ遷ったするため、「正」の字を付け正統を主張している。

◆隼人の反乱と八幡神
養老4年の隼人の反乱の際、朝廷に対して最も協力的だったのが豊前国である。この戦勝祈願において、宇佐神宮では託宣がおこなわれ、八幡神自らが戦地に赴くことが告げられた。そのため八幡神は神輿に乗って共に戦ったとされる。なお戦後八幡神は隼人の慰霊に勤め、自ら殺生に対する贖罪の意志を示すため「放生会」を執り行うよう託宣する。
詳しくは https://japanmystery.com/ooita/hyakutai.html を参照。

◆大伴旅人
665-731。左将軍や中務卿を歴任し、隼人の反乱の際には征隼人持節大将軍となる。緒戦で功を上げるが、半年後に藤原不比等逝去により勅命で帰京、その後は副将軍らが隼人鎮圧の任を負っている。

◆日向三代の夫婦神
日向三代は、天孫降臨でこの地に降り立った瓊瓊杵尊から神武天皇の父である鵜葺草葺不合命までの3代を指す。なお止上神社の6柱は、瓊瓊杵尊と妻の木花咲耶姫、彦火火出見命(山幸彦)と妻の豊玉姫命、鵜葺草葺不合命と妻の玉依姫命を指す。

アクセス:隼人塚:鹿児島県霧島市隼人町見次
     止上神社:鹿児島県霧島市国分重久