浜地蔵

【はまじぞう】

礪波平野を流れる小矢部川は、庄川と並んで平野を形成する大河である。そして河口に越中国の国府があった伏木の町があり、また蛇行があるものの流れが穏やかであるため水運が盛んであった。特に小矢部川と北陸街道が交差する今石動町には宿場及び米蔵が設けられ、隣の福町の港も併せて近隣の米の一大集積地として、礪波平野の中心的都市であった。このように栄えた町の外れたあたりに祀られているのが浜地蔵である。

文化5年(1808年)のこと。この福町に商売のために訪れていた七兵衛という男が、商いの元手とした大金を港で盗まれた。相当な額の金を失った七兵衛は気落ちのあまり、小矢部川に身を投げて死んでしまった。それ以来、川辺に七兵衛の亡霊が現れるという噂が立った。さらにその噂が出始めてから、伏木へ向かう商いの船が途中で転覆する事故が増えてきた。福町の港で金を盗まれた恨みから七兵衛の亡霊が祟っていると言われるようになったが、怖れるばかりで人々は為すすべもなかった。

そこへある尼僧が霊を慰めようと一心に読経を始めた。そして満願の日を迎えてからは七兵衛の亡霊を見かける者はなくなり、また船の事故もほとんどなくなって、再び港は活気を取り戻した。町の人々は七兵衛の慰霊のために浄財を集め、七兵衛の死の翌々年に一体の地蔵を造った。それが浜地蔵である。

このような縁起を持つ地蔵であるが、その後明治時代になってから不思議なことが起こり始めた。国を挙げての大事が起こると、身体全体から汗が噴き出てくると言われるようになった。最初は日清戦争の最中、さらに日露戦争、太平洋戦争の時にも全身汗まみれになった姿を多くの人が目撃している。そのため近隣の人々はこの地蔵を“汗かき地蔵”と呼び、国を加護すべく奮闘し汗を掻くのだとしている。

<用語解説>
◆今石動町
天正10年(1582年)前田利家と石動山天平寺が和睦、天平寺が人質の代わりに本尊を引き渡したところ、利家が愛宕神社に安置したことから一帯を“今石動”と呼ぶようになった。その後天正13年(1585年)の天正大地震で舟木城が崩壊したため、新たに今石動城が礪波郡・射水郡を治める前田利秀の居城となって城下町を形成。江戸時代になると今石動城は廃城、代わって礪波・射水両郡を統治する加賀藩の今石動町奉行所が設けられ、城下町は北陸街道の宿場町として残った。現在でも今石動町の隣の本町に小矢部市役所があり、市の中心として機能している。

アクセス:富山県小矢部市西福町