天徳寺

【てんとくじ】

正慶元年(1332年)に宇都宮頼房によって建立された、豊前宇都宮氏の菩提寺である。

豊前における宇都宮氏は、下野国の宇都宮氏の分家で、源頼朝の命で宇都宮信房が下向し、豊前守護職を与えられたことから始まる。鎌倉時代には九州全体で重きをなす家柄であったが、南北朝時代に南朝勢力に押されて衰退。戦国時代には豊前国を実効支配する大内氏・大伴氏・島津氏に次々従属する形で、本拠地である城井谷を中心に周辺を治めていた。

その中で天正14年(1586年)、豊臣秀吉による九州平定が始まる。当主の宇都宮(城井)鎮房は島津氏に与しながらも、嫡男の朝房にわずかの兵を預けて秀吉の陣に派遣して、家の命脈を守ろうとした。そして九州平定後、秀吉は宇都宮氏の存続を認めたが、与えられた朱印状には伊予国今治への加増転封の旨が記載されていたという。これは父祖伝来の領地である城井谷の安堵を願った鎮房の希望を裏切るものであった。そこで鎮房は朱印状を返上、すると当然のことながら秀吉の怒りを買ってしまった。

宇都宮一族が領していた土地は、直後に黒田孝高(如水)のものとして与えられた。それは言うまでもなく、孝高に宇都宮氏の処分を任せたという意味となる。最初孝高は穏便に話し合いで決着しようとしたが、鎮房が伝来の領地に固執。孝高の嫡男の長政は城井谷を力尽くで落とそうとするが、逆襲を受けて討死寸前まで追い込まれた。そこで孝高は、鎮房の娘・鶴姫を長政の嫁に貰うことで一旦和議に持ち込むこととする。しかしそれは黒田側の謀略であった。

天正16年(1588年)4月20日。婿である黒田長政に宴席に招かれ、小姓一人だけ連れて中津城に入った宇都宮鎮房は、城内で急襲を受けて謀殺される。中津まで同行した家臣らも、合元寺で討手によって全員斬り死にする。これが黒田孝高が仕掛けた宇都宮氏への謀略の始まりであった。

長政は鎮房謀殺後直ちに兵を城井谷へ差し向けると、総攻撃をおこなう。城には鎮房の父である長甫(長房)があったが、既に当主が討たれ、主立った家臣も失っているため、22日には落城。長甫も城と共に討死した。

そして24日、肥後国人一揆に出陣していた孝高の許に城井谷落城の報が届くと、和議の条件として孝高と共に出陣していた鎮房の嫡男・朝房をその場で暗殺。これによって宇都宮氏は歴史上から葬り去られたのである。

天徳寺の墓地には宇都宮氏の墓碑があり、ほぼ同時に無惨な死を迎えた長甫・鎮房・朝房の3代の墓石が並んで祀られている。よく見ると、この3基の墓石にはひびが入っており、長甫のものは上部に、鎮房のものは中央部を真横に、朝房のものは中央部を斜めに割れている。このひび割れはそれぞれの致命傷となった部分であると言われ、墓石を新調してもいつの間にか亀裂が入ってしまうと伝えられている。それだけ彼らの怨みは激しく、黒田氏は福岡へ転封した後もこの謀殺を家の汚点とみなし、“城井氏の呪い”に怯え続けることになる。

<用語解説>
家臣が討死した合元寺→ 日本伝承大鑑:https://japanmystery.com/ooita/gouganji.html

鶴姫が祀られた宇賀神社→ 日本伝承大鑑:https://japanmystery.com/fukuoka/ugajin.html

◆宇都宮氏その後
和議の条件に黒田長政に嫁いだ鶴姫は、謀殺の直後に侍女らと共に磔の刑に処せられ、山国川のそばに葬られた。その後、その場所から大蛇の化け物が出現し、当時の中津藩主・小笠原長円に害をなしたとされる。
また朝房の妻は城井谷を脱出し、実家の秋月に逃れ、男児を出産する。この男児は後に宇都宮朝末と名乗り、城井谷の旧臣と共に家名再興を図る。そして紆余曲折を経て、孫の信隆が福井藩に召し抱えられ、明治維新まで家名存続した。

◆城井氏の呪い
謀殺直後から黒田氏は鎮房の慰霊に勤めており、中津城内に城井大明神を祀っている(現在ある城井神社は、上記の小笠原長円が建てたもの)。また福岡転封となってからは警固大明神として祀り上げている(現在の警固神社がそれに当たる)。
しかしそのような慰霊とは裏腹に、黒田氏に何事か事件が起こると“城井氏の呪い”が噂となった。2代藩主忠之の時に起こった黒田騒動の際も、実際は全く関係のない空誉上人が鎮房の遺児で、裏で暗躍していたとの噂が流れた。また6代で長政の血統が途絶えた時(1775年)にも“城井氏の呪い”のためとの噂が広まった。さらにその後も後継者の夭折や不幸が起こる度にまことしやかに噂され、それは明治維新の頃まで続いたとされる。
また城井谷の城址では、毎年鎮房の命日に宇都宮氏の旧臣の末裔らが、野ばらを地面に刺して黒田家を呪い続けたとも言われる(中津藩出身の福澤諭吉の談)。

アクセス:福岡県築上郡築上町本庄