平重衡首洗い池・不成柿
【たいらのしげひらくびあらいいけ・ならずがき】
平重衡は平清盛の5男で器量ある将として一門を支えていたが、一の谷の戦いで生け捕りとなり鎌倉へ送られた。そこで対面した源頼朝はその立ち居振る舞いに感銘し、出来る限りの待遇をしたという。しかし一方で、東大寺大仏殿を焼き払った時の大将として、興福寺を始めとする南都の寺院からは憎悪を集める存在であった。源氏の勝利に貢献した南都から重衡引き渡しを強要された頼朝は、平家滅亡後から3ヶ月足らずでその要求を飲み、重衡は奈良へ連行された。
重衡は奈良の国境近くの木津川河原で斬首となる。この時重衡は法然から受戒を受け、さらに『平家物語』によると、仏を拝みながら斬られたいと願う重衡に、家臣であった木工右馬允知時が近くの寺から仏像を河原に運ばせ、さらに狩衣の紐の片方を仏像の手に結び、もう片方を重衡に握らせた。重衡はそのような中で念仏を唱えながら首を刎ねられたとされる。
重衡の首級はその後奈良の般若寺の門に釘付けとされたが、斬首直後にそばにあった池で洗われたという。それが“首洗い池”として現在も残っている。しかし現在は水たまり程度の大きさで、今にも干上がってしまいそうな様子であった。そしてその池の横には“不成柿”と呼ばれる柿の木がある。これは重衡の死を哀れに思った村人が植えたもの(あるいは重衡が最期に食べた柿の実の種を植えたもの)とされ、木が成長しても決して実が成らなかったと言われる。しかし何代目かの木となった現在は、写真のように多くの実が成っている(しかも実の大きさから渋柿のようである)。立派な案内板はあるものの、辛うじて残されている伝承地という印象だった。
この伝承地のすぐそばにあるのが、安福寺である。実はこの寺の本尊が、重衡の最期に持ち運ばれてきた仏像であると伝えられる。この安福寺の境内には重衡供養のために建てられた十三重塔が残っている。この寺との縁は今もなお繋がっているようである。

<用語解説>
◆平重衡
1157-1185。三位中将。平清盛の5男であるが、その戦功はめざましく、以仁王の乱を鎮圧したのを始め、南都の制圧(この時に東大寺焼き討ち事件が起こる)、墨俣川の戦い、水島の戦いと大将として出陣した戦にいずれも勝利している。しかし一の谷の戦いで馬を射られ、退却しきれずに生け捕りとなる。『平家物語』では文武とも秀でた人物として描かれ、鎌倉から奈良へ送られ斬首となるまでの詳細が語られる。
◆東大寺焼き討ち事件
治承4年(1180年)、重衡を大将として4万の軍勢で敵対する興福寺を始めとする南都の大寺院を攻撃、国境の般若寺まで侵攻する。そしてその夜に平家方が放った火によって、興福寺や東大寺のほとんどを焼失する火災が発生し多数の焼死者が出た。この火災により東大寺の大仏殿も全焼、大仏の首が熱で焼け落ちるという大惨事となり、南都寺院の憎悪を一身に集める結果となった。
火災の原因であるが、明かり取りのために近くの民家に火を放ったものが強風で延焼した、あるいは民家を焼き払うための放火が強風で延焼したとされ、大仏殿を焼き払う意図はなかったとの説が支持されている(『平家物語』でも、仏も顧みない極悪人ではなく、あくまでも不運の将として描かれる)。
◆重衡の首級のその後と藤原輔子
平重衡の正妻・藤原輔子は、安徳天皇の乳母として壇ノ浦の戦いまで近侍して入水するが、捕らえられた後に伏見の日野に隠棲していた。重衡が奈良へ護送される際、日野の近くを通りがかったことで夫婦は再会。重衡は自らの髪を噛みちぎって遺髪として渡し、輔子は重衡を白装束に着替えさせて最期の身なりを整えたとされる。
斬首後の重衡の首級は般若寺に晒されたが、輔子が手を回して貰い受け、河原に捨て置かれた胴体と併せて、日野で荼毘に付した。現在も日野には重衡の供養墓が残っている(遺骨は輔子の手で高野山に納められている)。また輔子はその後剃髪、建礼門院(安徳天皇の生母・重衡の同母姉)に仕えて最期を看取っている。
アクセス:京都府木津川市木津宮ノ裏