瑞巌寺 旗本百人腹切り場所

【ずいがんじ はたもとひゃくにんはらきりばしょ】

「岸岳末孫(きしだけばっそん)」という言葉が、唐津市を中心に松浦郡一帯で広く流布している。その実態は祟り神であり、岸岳城主であった波多氏及びその家臣らの供養墓を粗末にすると、病気や怪我などの祟りがあるとされた。今でも急な病や事故があると「岸岳末孫様の祟り」が噂されるという。

岸岳城主の波多氏の祖先は、源頼光四天王の一人・渡辺綱であるとされる。肥前守となった頼光に随行した綱は、現地で一子をもうける。その孫にあたる久が松浦姓をを名乗り(肥前松浦党の祖)、松浦郡一帯を支配。さらに久の次男・持が波多氏を名乗って岸岳城主となった。これが康和4年(1102年)のこととされる。

戦国時代末期、波多氏17代目の親(ちかし)は、豊臣秀吉の九州攻めの際に島津氏寄りで動いていたため、謁見はしたものの豊臣方に合力しなかった。最終的には松浦郡8万石は安堵されたが、秀吉とは初手の段階で折り合いが悪かったようである。その上朝鮮出兵に際し、秀吉は親の所領地であった名護屋に陣を敷こうとするが、親は反対。さらに秀吉の博多着陣には遅参するという失態を犯す。それでも親は鍋島直茂の与力として2000の兵を率いて朝鮮へ出陣する。しかしそこで鍋島勢と別行動を取るなど軍紀に違反するおこないなどがあったことから、遂に処分を受ける(一説では、親の正室・秀の前を秀吉が所望したのを拒否したためとも)。その処分は厳しいものであった。

船で名護屋へ戻ろうとする親は、海上で突然名護屋への着船を止められた。そしてその場で戦場での対応を詰問され、最終的に所領没収の上、徳川家康にお預けとなる。帰還どころか上陸することすら許されず、そのまま父祖代々の土地を強制的に離れることとなったのである(その後常陸国筑波へ配流が決まる)。

一方、突然主を失った岸岳城と家臣達は当然大騒動となり、連日場内で議論が交わされた。城に籠もって徹底抗戦を主張する者、討死覚悟で名護屋の陣へ攻め入ることを主張する者、また主を奪還あるいは赦免を願い出ようとする者、様々な意見が飛び交った。結局、岸岳城は開城し、家臣の多くは四散して他家へ仕官や帰農したとされる。しかし秀吉の仕打ちに対して憤懣やるかたなく恨みを持った家臣の一団は、波多氏の菩提寺であった瑞巌寺に集まり、辞世の句を残して集団自決したのである。その数は100名にのぼるとも言われた。これが現在でも残る“旗本百人腹切り場所”と呼ばれる墓群である。他にも恨みを抱いて生き長らえながた旧家臣達の墓が各所に建てられ、やがてこれらが「岸岳末孫」として畏怖の対象となったのである。

ただしこの「岸岳末孫」の伝説が、後年に作られたものであるとの説もある。具体的にはこの噂は、明和8年(1771年)に起こった虹の松原一揆の後から、「祟り」を理由にみだりに祖先の墓のある土地(田畑も含む)に役人を入らせないようにする目的で発生したのではないかとも言われる。また「岸岳末孫」の噂に関連する事象に言及している『松浦古事記』と『松浦拾風土記』の両著は、それぞれ寛政元年(1789年)と文化年間(1804~1811年)に刊行されたものであり、後世に流布した噂話であった可能性が高いともされる。

<用語解説>
◆波多親
生没年未詳。波多氏17代。有馬義貞の三男で、波多氏へ養子となったされる。正室の秀の前は龍造寺隆信の娘。豊臣秀吉より三河守と豊臣姓を下賜されるほどの厚遇を受けるが、朝鮮の役での言動によって改易される。没年は不明であるが、関ヶ原の戦いより前には亡くなっているとされる。

◆岸岳城
伝承によると、関東で起こった平忠常の乱に加わった後に松浦郡に定住した稲江多羅記という者があり、その子に狐角という名の大力の者があった。この狐角が鬼子嶽に拠って狼藉を働いたため、渡辺綱の子・久によって討たれた。この“鬼子嶽”がいつしか“岸岳”と表記されるようになったという。史実としては、波多氏初代の持がこの山に城を築き、以後波多氏の居城として450年近くあったが、17代の親の改易で廃城となったものと考えられる。
なお、現在の岸岳城址の東端に“姫落とし”と呼ばれる絶壁があるが、これは波多氏改易の際に豊臣軍が岸岳城を包囲、城に籠もった婦女子がこの絶壁から飛び降りて命を絶ったという、「岸岳末孫」伝説の一つが由来である。しかしそのような攻城戦がおこなわれた史実はない。

◆虹の松原一揆
明和3年(1771年)に起こった一揆。唐津藩(当時の藩主は水野忠任)が複数の新税を課すとの通達を受けて、領内の農民が抗議のために幕府直轄地である虹の松原に集結して抵抗した。唐津藩は幕府直轄地での農民蜂起が露見するのを怖れて、事を構えることなく増税を撤回した。この農民側の実力行使を背景に「岸岳末孫」という祟り話を広めて、田畑への役人の立ち入りを拒否しようとしたのではないかとの説がある。

アクセス:佐賀県唐津市北波多徳須恵

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