豪円地蔵

【ごうえんじぞう】

伯耆大山は中国地方の最高峰であり、霊山として古くから信仰の山である。今でも大山寺や大神山神社といった寺社が残るが、かつては僧兵3000人を抱える一大宗教都市であった。現在はこれらの寺社のある中腹より下の裾野にスキーなどのレジャー施設が設けられているが、そこに独立するように小高い山がそびえる。これが標高891mの豪円山である。

この山はかつて呼滝山という名であったが、いつしか豪円山と呼ぶようになった。頂上に“豪円地蔵”と呼ばれる一体の地蔵があることが由来のようだが、この地蔵には不気味な伝説が残されている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、大山のある伯耆国の国持ち大名として米子城に入ったのが中村一忠である。その頃の大山寺は豪円僧正を座主として復興を遂げ、寺領3000石を有する勢力であった。ところが一忠はこの寺領に目をつけ、伯耆国の土地として召し上げようとした。これに断固として反対する寺側は、豪円を筆頭に激しい抗議を展開した。そして数年が経って事態が膠着する中。豪円は病に倒れ、いよいよ危なくなった時、周囲の者に遺言を残す。

「吾を葬るにはすべからく米子城を俯瞰すべき地においてせよ。吾必ず異日米子城の没落を見せよう」

こうして亡くなった豪円を葬ったのが、今の豪円山の頂上。そこに供養を兼ねて建立されたのが地蔵である。この頃、米子の城下では夜な夜な豪円の幽霊が空を飛び回り、中村家に数々の不幸が起こったとされる。そして豪円が亡くなって3年後、藩主の一忠は20歳の若さで病死。さらに世継ぎがないとして家名断絶、改易となったのである。

豪円地蔵は、現在も山の頂上から米子の町をずっと見下ろしている。言い伝えでは、この地蔵の首を曲げても、翌朝には誰の手も借りずに元のように米子の城の方角に向きが戻るとされる。

<用語解説>
◆豪円
1535-1611。伯耆国で生まれ、幼い頃に大山寺で出家した。その後比叡山に上って修行を積み、備前国の金山寺を再興する。織田信長の焼き討ちで灰燼に帰した比叡山復興にも尽力した後、文禄3年(1594年)頃に大山寺住持となる。以降大山寺は寺領3000石、一山三院四十二坊という規模にまでなっている。

◆中村一忠
1590-1609。父は豊臣政権の三中老の一人、中村一氏。関ヶ原の戦い直前に父が急死したため、僅か11歳ながら関ヶ原の戦いの論功行賞で米子藩17万5000石の太守となる。ただ若年であるため、徳川家康が付けた執政家老で叔父の横田村詮が藩政を動かす。しかし讒言を受けて村詮を誅殺、家康を激怒させる。これが遠因か、20歳で急死した際、側室が男子をもうけているにもかかわらず無嗣断絶の処分となる。
なお「一忠」の名であるが、後に2代将軍秀忠から“忠”の一字を貰い「忠一」と改名しており、いずれの表記も正しい。

◆米子藩と大山寺の史実
米子藩が大山寺の所領没収を図ったことは事実らしいが、それに対して豪円は幕府に働きかけて3000石の所領安堵の朱印状を貰い受けている。そのため両者の対立が長引くことはなかったと考えられる。また豪円が祟ったため米子藩主・中村一忠が死去したとされるのは誤りで、一忠の方が先に病死している。よって上記の豪円地蔵の伝説は、後世に作られた話である。
ちなみに米子藩は、中村家断絶の後に加藤貞泰が入る。しかし元和3年(1617年)貞泰は伊予国大洲へ転封。代わって池田光政が因幡・伯耆両国を領することとなり、米子藩はここで消滅する。

アクセス:鳥取県西伯郡大山町大山