おたちきさん
【おたちきさん】
「西条市名水・名木50選」の1つに指定されている“オタキチさんのむく”が目印となっている。田の中に突き出すように立つ巨木の下に社があるが参道はなく、畦道を通って適当に近くまで寄ることしか出来なかった。
主祭神は、戦国武将で高尾城主の石川源太夫。“おたちき”は漢字では“大太刀君”と書き、源太夫を指すという。他には源太夫の嫡男、配下の武士らが祀られている。
天文年間(1532~1555年)、このあたりは非常に複雑な勢力争いが繰り広げられていた。当時伊予国の守護は河野氏であったが、新居郡・宇摩郡の2郡(今の四国中央市・西条市・新居浜市)だけは南北朝の動乱の際に細川氏が奪取して領有する。そして河野氏の分家で、本家に取って代わらんと虎視眈々の予州家当主を猶子として統治を任せたのである。ところが大永元年(1521年)予州家が河野本家の補佐のため居城を2郡から引き上げてしまう。そこで細川氏は、支配維持のために領国の備中国から重臣の子の石川伊予守を呼び寄せるが、この2郡を実質動かすことになったのが、土着の小領主の石川源太夫である。
『澄水記』によると、源太夫は文武において秀でており、領民から人望の篤い人物として慕われていたとされる。しかも源太夫は予州家の寵臣であり、予州家と河野本家が結びつこうとしている状況では、細川氏、とりわけ備中から派遣された石川伊予守にとっては非常に厄介な存在となっていた。ただ畿内で激しい政争に明け暮れていた細川氏は、河野氏と事を構える余裕がなかったためか、現状維持を良しとしていた。
そのような中で天文18年(1549年)京都の細川氏政権が瓦解し、三好長慶が政権を掌握すると、石川伊予守は2郡を実効支配する予州河野氏との対決を鮮明にする。伊予守一派は「石川源太夫は驕り高ぶり、主である予州家を蔑ろにして、謀反を企んでいる」との讒言を流し、源太夫と予州家との分断を謀り、実力者の石川源太夫排除の布石を打っていった。
天文20年(1551年)5月、石川源太夫は2郡の諸将の集まりに呼び出され、6名の供回りだけで指定の場所へ向かった。そして木挽原まで馬を進めたところで突然200名もの伏兵の襲撃を受け、奮戦も虚しく主従共々討ち果たされたのである。さらに居城の高尾城では悲報を聞いた嫡男の源吾が自害、これで源太夫の勢力の排除に成功したのである。
源太夫主従の亡骸は木挽原の村人の手によって椋の木の下に埋められ、謀殺による混乱を避けるため石川伊予守も早々に寺での法要を執り行った。しかし近隣ではまことしやかな噂が流れた。深夜の木挽原に、“七人みさき”となった源太夫主従7名が何事かを話しながら騎馬で通り過ぎる。それに遭遇する者は祟りに遭う。また源太夫が討たれたのは端午の節句の日であったため、木挽原の集落の家々では端午の節句に鯉のぼりを出さない。出すと暴風となるとされる。

<用語解説>
◆伊予石川氏
戦国時代に伊予国に勢力を持った石川氏は、大永2年(1522年)に備中国から新居郡の高峠城に入った石川虎之助を初代とする。この備中にあった石川氏は備中細川氏の重臣で、その元をたどると、明徳4年(1493年)備中国守護に任じられた細川氏と共に伊予から移ってきたとされる。そのため土着の小領主の石川源太夫とは遠縁ながら血の繋がった一族とみなされるようである。このまだ元服前だった虎之助が成長して伊予守を名乗り、石川源太夫と対峙したと考えられる。
その後も伊予石川氏は断片的な記録しかなく、
天文20年(1551年)の時点の城主・備中守通昌(伊予守本人? 伊予守の子?)
弘治年間(1555~1558年)に三好長慶の娘を娶り、河野氏と戦った備中守通清(伊予守の子? 通昌と同一人物?)
通昌(通清)の嫡子で、長宗我部氏に下った備中守勝重
が残された文書から実在したと読み取れる。そして天正13年(1585年)小早川隆景率いる豊臣軍約2万を相手に奮戦。一子である虎竹丸を高知へ逃れさせると、城を枕に一族郎等全員が討死したとされる。
◆『澄水記』
貞享元年(1684年)刊。天正13年の豊臣軍との戦いの百回忌に当たり、伊予石川氏の一門(姻族)で、新居郡土着の小領主であった金子備後守元宅の戦いぶりを中心に書かれた軍記物。またその戦に至る、新居郡・宇摩郡における伊予石川氏の歴史(上記に書いた石川氏及び石川源太夫の事績等)についても言及する。なお本の表題は“石川の流れは澄んだ水の如し”との意味が込められている。
アクセス:愛媛県西条市中野