鶏足寺

【けいそくじ】

創建は大同4年(809年)。かつて世尊山が長らく鳴動し、その際に出現したとされる石仏を本尊として東大寺の定恵上人が開いた。この時の寺号は、鳴動した山の名を採って“世尊寺”とされた。その後慈覚大師円仁が現在地に移して、釈迦堂など多くの堂宇を増建して寺勢を拡大した。この世尊寺が“鶏足寺”と名を改めたのは、次のような伝説のためであるとされる。

天慶の乱を起こした平将門を討とうと立ち上がった藤原秀郷は、直接的な武力だけではなく、調伏という呪術的な力も利用した。当時、下野の唐沢山(佐野市)に居を構えていた秀郷は、“世尊寺”に調伏を依頼。寺では住持以下100名もの僧が昼夜分かたず調伏の祈祷をおこなった。五大尊の前に護摩壇を築き、さらに五大尊の中央に据えた不動明王の足元には将門に模した土の首を置くという凄まじいものであった。

そして満願の日。住持の常裕法印も疲れの極限に達し、ふと意識が遠のいた。その時法印の目の前に、何かの上に乗っかった3本足の鶏が現れた。よく見ると、鶏が踏みつけにしているのは血まみれの将門の首ではないか。驚き我に返った法印の目の前には鶏の姿はなく、幻だったと気付いたが、護摩壇越しに見えるのは不動明王の足元に置かれた将門の土首であった。まさかと思い近づいて見ると、土首の頭頂には明らかに鶏と分かる足跡が3つ。法印は自分の見た幻が調伏成就の証しと悟ったのである。

藤原秀郷が討ち取った将門の首は寺にも運ばれ、法印は自分の見た奇瑞を秀郷に語り、その土首を見せた。秀郷はこの土首を調伏の証しとして京都へ持参して報告、朝廷は勅願寺に定め、その名を“鶏足寺”と改めたのである。

<用語解説>
◆天慶の乱
一族間の所領争いの中で台頭した平将門が天慶2年(939年)11月に常陸国の国府を焼き討ちにしたことから、朝廷が逆賊として征討軍を派遣した。将門は関東8ヶ国を支配して“新皇”を名乗るが、翌年2月に敗死する。なお将門を討った藤原秀郷は、乱平定の年に従四位下野守に任ぜられている。

アクセス:栃木県足利市小俣町