おちよ地蔵

【おちよじぞう】

高知市の西部を流れる鏡川。その流れが大きく曲がり、国道33号線と並走するようになる辺りが朝倉地区である。それまで鏡川と並んでいた県道273号線が国道と交わる少し手前あたり、その県道沿いに祀られているのがおちよ地蔵である。嘉永7年(1854年)の年号が台座に刻まれたおちよ地蔵は、母娘2体の地蔵である。向かって右が母で、左が娘のお千代を祀るものとされる。

土佐の城下を流れる鏡川も何度も治水工事がおこなわれたが、ちょうど川が大きく曲がる朝倉の堤は毎年大雨になると決壊を繰り返し、その都度大水で田畑が水没して多大な被害が出ていた。在所の者は堤が崩れないようにするためには水神に人柱を立てる以外に方法がないと考え出した。そこで白羽の矢が立てられたのが、13歳になるお千代という少女であった。器量が良く、さらに母娘だけの貧しい所帯であったので、人柱として適当であると考えたのであろう。村人はお千代に人柱になるよう説得を始めた。

最終的にお千代は人柱となることを承諾した。ただその条件として、残される母親の面倒を最後まで村でみて欲しいと頼んだ。村人はその条件をすぐに承知し、間もなくお千代は人柱として生き埋めとなり、堤の改修は無事に終わったのである。

その年から大雨になっても堤が切れることはなくなった。人柱のおかげと村人は喜び、お千代の母は村で養われるようになった。しかし数年経ち、堤が切れないことが当たり前となっていくに従い、村人はお千代の母を顧みなくなった。独りでは食い扶持がない母親は、しばらくして亡くなってしまった。

それから数年後、大雨が降り鏡川の堤が決壊した。長らく水害に遭っていなかった村々は、この突然の災害に恐れおののいた。この水害は、人柱となったお千代との約束を破り、母親を見殺しにしてしまった天罰であると。村人は浄財を集めると、哀れな母娘を慰霊するための地蔵を2体造り、鏡川の見える位置に安置した。これがおちよ地蔵の始まりである。

現在でも毎年夏に、このおちよ地蔵の供養をおこない、鏡川の安全祈願祭が実施されている。今でも鏡川を守るものとして地元では崇敬されているのである。

アクセス:高知県高知市朝倉丙