窓誉寺 お菊地蔵
【そうようじ おきくじぞう】
創建は元和5年(1619年)。徳川頼宣が駿府から和歌山に転封となった時、掛川にあった窓泉寺二世・瓢外法察大和尚が請われて開いた。創建当初は窓養寺の寺名であったが、瓢外大和尚が、ある葬儀で嵐を起こし棺を奪おうとした火車を一喝して退散させたことを藩主頼宣が聞き及び、傑僧として名誉なことと「誉」の字を与えた。この出来事以降、寺名を窓誉寺としたとされる。(この火車退治の際に身に着けていた数珠と袈裟が寺宝として残っているとのこと)
現在、墓石が並ぶ場所に一体の地蔵が祀られている。その名を“お菊地蔵”とする。これは日本三大怪談の一つ『番町皿屋敷』ゆかりのもので、以下のような話が伝えられている。
お菊の亡霊に苛まれた青山主膳は、思い余った末に、紀州に住む伯母のエイ(栄)にお菊の供養を依頼。エイは、窓誉寺三世・鶻州良天大和尚に供養を頼み、預かった因縁の皿を奉納、それ以降幽霊騒動は収まったとされる。その後お菊を供養するために、エイの墓のそばに地蔵が置かれるようになったという。
窓誉寺には、非公開ではあるが、このお菊の皿7枚が残されている。奉納時には9枚であったが、2枚紛失しているらしい。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』によると、皿は直径15cm余りの平皿で、白磁の底面にかすかに南蛮風の人物像が描かれているとのこと。
<用語解説>
◆窓泉寺
遠江国横須賀城主であった大須賀康高が天正7年(1579年)に亡妻の菩提を弔うために創建。徳川頼宣が駿河藩主となると横須賀の地も領内となり、その後横須賀在の武士を多く新規に取り立てて藩士としている。おそらくその関係から和歌山転封の際に瓢外大和尚が随行したと推測される。
◆『番町皿屋敷』の青山主膳
この話の元ネタは『皿屋敷弁疑録』(宝暦8年:1758年刊)という本であり、そこに書かれた青山主膳という人物の概要は以下の通り。承応2年(1653年)正月二日、牛込御門内五番町に屋敷を構える火付盗賊改役(1665年創設)の青山主膳が、盗賊・向坂甚内(1613年刑死)の娘・菊を役宅にて下女として使っていたが、その菊が誤って家宝の皿を割った。青山は菊の中指を切り落とし、手討ちにするために監禁していたが、菊はその直前に井戸に身を投げて 自害。その井戸から菊の亡霊が現れては皿の数を数え、青山の本妻が産んだ子の中指が欠けているなどの怪異が続き、青山家は取り潰しとなる。
結論を言うと、この青山主膳という人物は架空の人物であり、“青山”の名は、姫路を発祥とする『播州皿屋敷』伝説に登場する敵役“青山鉄山”、さらにその元ネタとなった『竹叟夜話』(天正5年:1577年頃成立)に登場する“播磨の青山”という地名から引用された可能性が高い。
◆紀州藩と“青山”
“青山主膳の伯母で、紀州在のエイ”であるが、伊藤氏の著書では“地蔵の後方に半ばこわれかけた青山栄の墓がある”とある。これが間違いなければエイの家が青山姓であると断定出来る。そして明治初期に編纂された『旧和歌山藩士族名簿』に“青山新太郎”なる者が記載されており、この人物が“青山栄”の子孫である可能性が残される。(ちなみに伊藤氏は、青山主膳を紀州藩江戸詰の侍と想定し、その実在は分からないとしている)
一方、紀州藩の江戸屋敷のあった場所に注目すると、上屋敷は麹町(番町の隣)にあり、広大な中屋敷の南西の一角には青山御殿と呼ばれる屋敷があった。地理的には、紀州藩は『番町皿屋敷』の舞台にかなり近かい立地であったと言えるだろう。
◆『日本の皿屋敷伝説』
平成14年(2002年)、海鳥社から出版。皿屋敷伝説研究の第一級資料。伊藤篤氏の遺作でもある。
アクセス:和歌山県和歌山市吹上