牛窪地蔵

【うしくぼじぞう】

牛窪地蔵があるのは、国道20号線(甲州街道)と中野通りが交わる笹塚交差点のそばである。日頃から交通量が多いせいもあって、交通事故多発地点として知られる。そしてこの事故の多さに関して、かつてこの土地が忌み地であったことを原因とするまことしやかな噂がある。

昭和45年(1970年)に道路拡幅工事で現在地に地蔵が移転された際に造られた案内にも刻まれているが、かつてこの地は窪地で処刑場であったとされる。しかもここでおこなわれていた刑罰は“牛裂きの刑”という、当時でも残虐とされていたものであった。それが江戸時代初期まで続けられていたという。このことから一帯は牛窪と呼ばれるようになったらしい。

地蔵が建立されたのは正徳元年(1711年)。既に処刑場ではなくなっていた土地であるが、数年来に渡ってこの地に疫病が蔓延し、これが処刑された罪人の祟りであるとみなされたことから、慰霊のためや子供の健康を祈願する形で地蔵が祀られた。またいつ頃かからか、この場所は幡ヶ谷村一帯で雨乞い行事をおこなう場とされ、井の頭あたりから運ばれてきた水をこの場所で迎えて祭祀を執り行ったようである。

同じ敷地にある“道供養碑”は、道中の安全を祈願する目的で建てられたものであるが、地蔵や道祖神のような神仏に安全祈願するものではなく、道そのものを慰撫することで安全を維持しようという、非常に変わった形の供養碑となっている。このあたりは甲州街道などで行き倒れ者が多くあり、このような供養碑を建てて道標としていたとも考えられる。

<用語解説>
◆牛裂きの刑
罪人の両足あるいは四肢を縄で縛り、それぞれ牛にその先を結わえて走らせ、罪人の身体を引きちぎる処刑方法。戦国時代に各地でおこなわれていたとの記録がある。江戸幕府成立以降は残虐な刑罰として敬遠され(徳川家康の御遺訓百ヵ条にも“将軍家之不及行処也”と記される)、最終的に保科正之(1611-1673。徳川家光の実弟で会津藩初代藩主)の献策によって禁止されたとされる。

◆牛窪刑場の存在
この牛窪に処刑場があったという記録は、実は上記の牛窪地蔵の案内に表記されている以外には見当たらない。しかし江戸では、大きな街道の最初の宿場近くに刑場が設けられており
東海道:品川宿→鈴ヶ森刑場(1651年芝・高輪刑場から移設)
奥州街道:千住宿→小塚原刑場(1651年創設)
中山道:板橋宿→板橋刑場(幕末期のみ設置)
甲州街道の高井戸宿(内藤新宿に宿場が出来るのは1699年)近くに刑場があった可能性は否定出来ない。ただ上記の保科正之の献策の逸話や、鈴ヶ森・小塚原の両刑場の開設時期を考えると、存在していても1650年前後には閉鎖されたとするのが妥当とも。

◆雨乞いと牛
牛窪の“牛”の名の由来は刑場にあるとされているが、この地が刑場と同時に“雨乞いの祭祀場”であったことに関係しているとも考えられる。
雨乞いの儀式で牛が使われることは日本各地の伝承でも記録されており、その際牛は首を斬られ、その首を水源に投げ込むことで神の怒りを引き起こすというパターンが多く見られる。この牛を使った残虐で血生臭い秘儀のイメージが忌み地として記憶された……と考えるのも一興である。

アクセス:東京都渋谷区幡ヶ谷