味噌なめ地蔵

【みそなめじぞう】

国道141号線に面するようにある正覚寺の参道入口にある地蔵である。参道の入口は県道619号線沿いにあり、この道はかつて佐久往還として甲州街道の脇街道として経済流通の重要な経路とされていた。この街道筋に置かれた地蔵であるが、座像であるにもかかわらず高さが170cmほどもあり、大人の背丈ほどもある。覆い屋も含めればかなり目立っていたであろうと推測されるが、さらに度肝を抜かれるのはその姿である。全身くまなくと言って良いぐらい見事に味噌が塗りたくられているのである。

この地蔵のご利益は、身体の病んだ部分と同じ箇所に味噌を塗って祈願すると必ず治るというもの。その不思議な習俗は今なお続いており、決して古くない味噌の塗られた跡もあり、日によっては味噌の匂いがほのかにすることもあるらしい。

そしてこの地蔵の出自についても次のような伝説が残っている。

この地蔵は元は信濃の川中島にあったとされ、陣を張っていた武田信玄が珍しいものとして持ち帰ろうとした。あるいは、天文5年(1536年)に信濃の大門峠まで兵を進めたが、そこで光を放つ地蔵があってそれ以上進めなくなったため、撤退ついでに持ち帰ろうとしたとされる。そしていずれの話でも、地蔵の胴体を縄で縛り上げて甲府まで引き摺り運んでいたところ、この若神子の地まで来て突然動かなくなってしまったのでやむなくここに安置したという。そのため今も地蔵の背中の部分には縄を打たれた跡がはっきりと残っている。またこの伝説から、この地蔵は一名“放光地蔵”とも呼ばれている。

さらにまた別説では、信玄が初陣で討ち取った平賀源心の菩提を弔うために造らせ、正覚寺に納めたという話も残っている。

<用語解説>
◆正覚寺
開基は大治2年(1127年)、甲斐源氏の祖とされる源義清が、父である新羅三郎義光の菩提を弔うために建立したとされる。永享2年(1430年)に現在地に移転し、その際に曹洞宗に改宗された。
なお当寺には平賀源心の位牌が武田信玄によって納められている。
またこの若神子の地は、武田氏の信濃戦略の拠点として長く機能しており、ここを経由して兵馬を動かしていた。

◆大門峠
長野茅野市と長和町の境、白樺湖のそばにある峠。武田氏が川中島などの北信方面へ兵を進める際に利用した。現在は国道152号線(大門街道)が通る。

◆平賀源心
?-1537。信濃海ノ口城主。信玄の父・信虎の佐久侵攻に対して徹底抗戦して退ける。しかし直後に信玄が奇襲を仕掛け、討ち取られたとされる。これが信玄(当時は晴信)の初陣であった。

アクセス:山梨県北杜市須玉町若神子