浦島地蔵
【うらしまじぞう】
子安から神奈川近辺は、昔から浦島太郎の伝承地として知られている。この土地の言い伝えでは、浦島太郎の父である太夫は相州三浦を出自とする者で、太郎も当地で生まれたとする。その後命が下って親子共々丹後国へ赴き、そこで太郎が乙姫と出会って龍宮へ行くという話に繋がる。そして龍宮から戻ってきた太郎は、既に300年の年月が経ったことを知ると故郷へ帰り、両親が葬られている墓のそばに庵を結び、この地で昇天したという。この庵の跡地に建てられたのが観福寺で、江戸時代には東海道の名所として賑わったとされる。しかし幕末の大火で焼失、明治の廃仏毀釈によって廃寺となったため、観福寺にあった浦島太郎ゆかりの品は慶運寺に運ばれ、現在に至っている。
浦島地蔵と呼ばれる一体の地蔵が、観福寺跡と慶運寺の中間地点に祀られている。この地蔵は、元々観福寺の入口にあったことから浦島地蔵と名付けられ、火事の騒動で他の寺宝と同じく慶運寺へ安置されるはずであった。ところがこの亀住町まで来たところで、突然運んでいた荷車が動かなくなった。とうとう曳かせていた牛がへばるに至り、この地蔵はここに祀って欲しいのだろうということで、慶運寺に運ぶことを諦めてここに置いたとされる。以降この地蔵は亀住町にあるが、土地開発に合わせて数度町内を移転している。(写真は2005年に撮ったもの。当時は亀住町にある浦島保育園の斜め前の住宅地にあった)

<用語解説>
◆観福寺
寺伝によると、浦島太郎は天長2年(825年)に龍宮から持ち帰った観音像と玉手箱を奉納して海へ消え、その直後に空海の十大弟子の一人・実恵(786-847)が寺を創建したとされる。その後浄土宗の寺院として再興され、江戸時代は“浦島寺”の通名で神奈川の名所となった。慶応4年(1868年)の大火で堂宇が焼失、明治になって廃寺となる。
大正15年(1926年)に日蓮宗の蓮法寺が跡地に建ち、跡に残されていた浦島父子と亀の供養塔などを管理している。
◆慶運寺
文安4年(1447年)創建の浄土宗の寺院。明治6年(1873年)に廃寺となった観福寺を合寺し、龍宮伝来とされる観音像などが移転・管理される。現在“浦島寺”の通名はこの慶運寺が継承する。
アクセス:神奈川県横浜市神奈川区亀住町