袈裟懸地蔵

【けさがけじぞう】

宝暦5年(1755年)に起こった宝暦の大飢饉は、北日本一帯に大きな被害をもたらした。新発田藩でも被害は甚大であったが、さらに翌年には追い打ちを掛けるように洪水も発生し、もはや農民の生活は立ちゆかなくなっていた。下興野村でも供出する年貢米が不足し、それを補うために庄屋の喜兵衛は村で集めた金を持って藩の港である沼垂(現・新潟港)に赴いて不足分の米を買おうとした。しかし一帯が凶作であるため手に入れることは出来ず、万策尽きた喜兵衛は村に戻ることなく、そのまま何処かへ出奔してしまったのである。

結局年貢米を全て納めきれず、喜兵衛は出奔の罪でお尋ね者となった。さらに村にも厳しい連帯責任の処分が下された。喜兵衛の妻子は家財没収の上で追放、村の組頭は一代戸締の罰で謹慎、さらに土地持ちの本百姓の多くは田畑を売って村を出て行く羽目となった。この宝暦6年は、新発田藩の多くの村がこのような悲劇に見舞われたのである。

それから数年が経ち、ようやく下興野村も落ち着いてきた頃、喜兵衛が死んだという話が村人に伝わってきた。噂では、潜伏先で捕吏の詮索を受けて逃亡しようとして、背中を一刀のもとに斬られて果てたという。村を窮地に追い込んだ張本人であるが、長年庄屋として尽力してきた人でもある。村人は喜兵衛の慰霊のために地蔵を建立し、先年の飢饉で土地を離れていった者たちの後生善処息災も祈願した。

この地蔵には、製作の際、背中に刀傷が彫り込まれている。供養の対象である喜兵衛が背中を袈裟切りに斬られたことを示すものであるが、普段見ることがない背中に傷を付けることで新発田藩の苛政に対する無言の抗議を示すものであるとも言われている。

<用語解説>
◆宝暦の飢饉
1755年から翌年に掛けて、東北地方を中心に起こった大飢饉。東北地方では江戸三大飢饉として、天明・天保の飢饉と共に数えられる(一般的には宝暦の代わりに享保の飢饉が入る)。この年は寒さが3月まで続き、夏に冷害が発生、さらに10月には雪が降り始めるという低温状態が続いた。最終的に東北地方だけで十数万人の死者が出たと推計されている。

アクセス:新潟県新潟市秋葉区下興野町