那須与一神社
【なすのよいちじんじゃ】
屋島の戦いで、扇の的を見事射抜いた那須与一の後半生は謎に包まれている。正史に類する記録では、与一に関する記述はこの扇の的の戦功だけであり、それ以外には何も残されていないためである。そのためか、後半生に関する伝説が全国各地に点在する。
石井町高原には、その名も那須与一神社という小社がある。狭い境内には2基の供養塔があり、さらに社の中にも2基の五輪塔が祀られている。地元の伝説によると、屋島の戦いの功績によって与一はこの一帯を所領として与えられ、後世をここで暮らしたとされる。祀られている五輪塔は与一の墓あるいは供養塔であると考えられている(もう一基のものは彼の妻のものとも)。
この神社から北へ約200m離れた場所に新宮本宮両神社がある。この神社は所領を得た与一が、熊野神社を勧請して、旧来あった神社と合祀したものであるとされる。そしてこの神社の境内には“矢神のイチョウ”と呼ばれる、幹周り約10m、高さ30mの巨木がある。所領を得た与一が、上板町にある大山寺から矢を放ったところ、この木に当たったという伝説が残る。大山寺からこの地までは約10km弱。この人間離れした伝説からか、“矢神”とは那須与一のことを指すと言い伝えられる。


<用語解説>
◆那須与一
1169?-1189?。その名から那須氏の11男とされるが、後に那須氏2代当主となったとされる。軍記物である『平家物語』『源平盛衰記』には屋島での活躍が記されているが、この時代の正史『吾妻鏡』には記述がないため、存在自体に疑義があるともされる。京都伏見にて急病死。正式な墓所は、京都市東山区の即成院にある。
◆大山寺
四国別格霊場の第一番札所。大山の中腹にある。源義経が屋島の戦いの前に参詣して必勝祈願をし、勝利後に愛馬の薄雪などを奉納したとされる。
アクセス:徳島県名西郡石井町高原