源済岩

【げんさいいわ】

中津川市から恵那市にかけての木曽川流域は“恵那峡”と呼ばれる景勝地である。この恵那峡の一画に源済公園と呼ばれる自然公園がある。この“源済”という名は、かつてこの地にあった千旦林城主の吉村源済(源斎・玄済とも)から採られたものである。

源済は戦国時代の後期に、苗木城主だった遠山氏の家臣として活躍した。その大力は目を見張るもので、生まれた時には既に4貫匁(約15kg)あって、生まれると同時に歩き出すとそのまま木曽川に飛び込んで泳いでみせたという伝説が残る。さらに15歳の時に伊勢参りをし、五十鈴川で見つけた石を煙草入れの根付けにと持ち帰ったものが内城稲荷神社(恵那市大井町)に納められている。その重さは約75kg、大力自慢の伝説に相応しい。

千旦林城主となってからの源済は、領民と共に田畑を耕したり、山の木を伐り出したりと善政を敷いた。その噂は広まり、当時美濃国へ進出してきた武田信玄の耳にも届いた。そこで是非とも軍師として取り立てたいと書状を送ったが、源済は「戦は好まぬ故に」と断り続けた。

諦めきれない信玄であったが、源済の有能なことを考えると、味方とならない以上敵になる前に討ち滅ぼすべきと決断した。こうして信玄は兵を率いて千旦林城を攻めようとした。それに対して源済は城で戦えば領民に被害が及ぶと考え、人里離れた川沿いの岩窟に単身立て籠もった。源済はその岩窟を根城として存分に戦ったが多勢に無勢、間もなく武田の兵に討ち取られたという。

源済公園の遊歩道を奥へ進むと、源済が立て籠もったとの伝説が残る源済岩がある。巨岩が自然に積み重なって出来た岩窟であり、高さは約6m。中には源済を偲ぶ者によって祀られた源済大明神の祠がある。

<用語解説>
◆千旦林城
岩村城防衛のために遠山氏が築いた18の支城の1つ。おそらく小規模の砦であったと推測される。岩村城は元亀3年(1572年)末に開城して武田氏が占領していたが、その後も千旦林城などの支城は織田方の遠山氏の支配下にあり、千旦林城は吉村源済親子が守備に入っていた。そして信玄死後の元亀5年(1574年)、大軍を率いた武田勝頼が東美濃を攻撃、その際に他の支城と共に千旦林城も落城している。史実ではこの時の戦いで吉村源済は城を枕に討死している。

アクセス:岐阜県中津川市千旦林