大豆坂地蔵
【まめさかじぞう】
高さ4mの石造の地蔵で、日本一の大きさとされる。
造立は明和2年(1765年)。三本木で放火の罪で処刑された者がいた。この者の供養のためにと、大光寺の住職が仙台の八幡(現・仙台市青葉区)にある石工に地蔵の造立を依頼した。石工は広瀬川にあった大石を使って巨大な地蔵を造り上げた。そして三本木にある大光寺まで地蔵は運ばれたのであるが、途中の大豆坂まで来た時に急に地蔵が重くなり、大勢の人で押しても引いてもピクリとも動かなくなってしまった。結局、地蔵は大光寺まで運ばれず、この大豆坂に置かれるようになった。これがこの地にぽつんと立つ巨大な地蔵の謂われである。
それから100年ほど経った明治9年(1876年)。明治天皇が東北を行幸し、その道程に大豆坂が入った。土地の者は、この4mもの石像が天皇の目に触れることが不敬であると考え、行幸の際に伏せてしまったのである。さらに明治14年(1881年)再び明治天皇の行幸が決まると、今度は目につかない場所に置こうと、地蔵の移動を実行した。ところが、いざ動かし始めると、想像以上に重くてなかなか動かせない。それでも無理やり大豆坂から離れた場所まで運んだのである。
この年、三本木では疫病が蔓延し、かなりの村人が病死する事態となった。さらに以前から地蔵を信心していた老婆の夢枕に地蔵が現れ「元の場所に帰りたい。直ちに戻すように」と告げたと言いだした。困り果てた村人は最終的に地蔵を元の場所に戻すことに決めたが、移動の際に難儀したことを考えて大掛かりな準備をした。しかしいざ動かし始めると、巨大な石像とは思えないほど軽く感じられ、あっという間に元の場所に辿り着いたという。以降、この地蔵はこの地で穏やかな表情で立ち続けている。
<用語解説>
◆大光寺
大崎市三本木桑折にある、曹洞宗の寺院。大豆坂から東へ約2km程の場所にある。
◆大豆坂の由来
かつてこの坂には豆粒ほどの丸い石が大量に転がっていたことから“豆坂”と呼ばれるようになったとのこと。また昔は雨が降ると坂がぬかるんで、歩くのにも難儀したとも伝わる。
◆大豆坂地蔵の現在
この地蔵の立っている土地は大光寺とは関係ない、個人の所有地である。そして平成20年頃から、土地の境界をめぐるトラブルが個人と市との間で発生。そのためか、地蔵のある場所に一時「売地」の看板が立ったり、有刺鉄線で封鎖されるなど、参拝に深刻な影響が出た。現在も入口は封鎖された状態であるらしい。(ちなみに写真は平成24年7月に訪問した際に撮ったもの。この時はまだ封鎖はされてなかった)
アクセス:宮城県大崎市三本木