頼光塚
【らいこうづか】
県道から外れた生活道路脇にある石塔である。市が立てた案内板があるので何らかの文化財であると分かるが、それがなければ取り立てて目立つこともない。
案内板によると、南北朝時代に造られたと推定されるもので、本来は笠塔婆だったが、一番上の笠部分が逸失してしまったと考えられるらしい。そして斜めに割れているが、このような形状になったことには次のような伝説が残っている。
この石塔のあたりに、馬に乗った武者が毎夜現れて、通りがかる人を脅かしていた。これを聞いた松島利太夫という者が、このあやかしを退治してやろうと名乗り出て、このあたりで待ち伏せていた。夜も更けると噂通り騎馬武者が現れたので、利太夫は刀を抜いてやにわに武者に斬り掛かった。確かに手応えがあったが、気が付くと馬も武者も姿が見えない。やむなく利太夫は一旦家に戻り、翌朝斬りつけた場所に戻ってくると、近くにあった石塔が見事に真っ二つになっていた。それから騎馬武者のあやかしが現れることはなくなったという。
よくある化け物退治の典型であるが、ただ不思議なことはこの石塔の名称である“頼光”の由来である。おそらく源頼光から採られたものと考えられるが、それを示唆するものは一切ない。この名称こそが、この塚の伝承の最も不思議なところなのである。

<用語解説>
◆源頼光
948-1021。平安中期の武将。清和源氏の3代目で、摂津国多田を拠点として武士団を形成し、摂津源氏の祖とされる。
伝承では、配下の四天王と共に大江山の酒呑童子を退治、病床にありながら土蜘蛛を退治するなど、武を以てあやかしをねじ伏せる英雄とされる。
一方史実としては、藤原氏、特に藤原道長に長く仕えながら、美濃守・但馬守・伊予守などを歴任する中級貴族として、大いに羽振りを利かせていたとされる。
いずれにせよ頼光と上野国との関わりは表向きにはなく、「頼光塚」の名称が源頼光に直接関係するものであると考えられない。おそらく“武士による化けも退治”という類似点から付けられたと短絡的に考えるのが妥当かもしれない。
アクセス:群馬県伊勢崎市東小保方町