将軍杉
【しょうぐんすぎ】
国の天然記念物に指定された杉の巨木で、樹齢1400年、樹高約40m、幹周りは19.3mにもなる。この幹周りはかの縄文杉(約16m強)を上回り、日本一の太さを誇る。
この杉の巨木は平等寺という古刹の境内そばにあり、平維茂の墓碑の目印であるとされる。この一帯は江戸時代には会津藩の領地であり、当時の藩主であった保科正之が藩内に残る偉人の痕跡を調べさせた際に、ここがかつて鎮守府将軍であった平維茂の墓所であることが判明。そこで“鎮守府将軍平維茂碑並銘”を新たに建てて墓碑とした。このことからこの杉の巨木は“将軍杉”の名で呼ばれるようになった。
この杉が日本一の幹周りとなったのは、その特徴的な形のためである。主幹は昭和36年(1961年)の第二室戸台風で折れてしまったが、地面からすぐの部分から複数の太い枝が分かれて繁茂しており、それらによって1本の木として驚くような幹周りとなっている。この奇妙な枝分かれの姿から、次のような伝説が残されている。
この地区の村人は阿賀野川の水運で生計を立てており、この巨大な杉の木を伐って大きな船を造ろうと考えた(あるいは帆柱にしようとしたとも)。翌朝村人が集まって杉の木のところへ行くと、杉の木自身が地中深く潜り込んだのか、枝の生えた部分が地面すれすれのところまで下がってしまっていた。これを見た村人はこの木を伐って船を造ることを諦め、手厚く守り続けたという。

<用語解説>
◆平維茂
生没年未詳。平兼忠の長子であり、叔父の平貞盛(藤原秀郷と共に平将門の乱鎮定に功のあった武将)の養子となる。15番目の養子であったことから“余五”の別称が付けられる。
『今昔物語』には陸奥国で藤原諸任(藤原秀郷の孫)と所領争いで討ち果たし、陸奥国に名を馳せたとされる。その後藤原道長の時代には、陸奥国を統治する武門の長である“鎮守府将軍”となっている。また信濃守として赴任し、各所を荒らし回っていた鬼女紅葉を退治するという伝説が残っており、長野県上田市にはその戦いの傷が元で亡くなったとして維茂の墓が現存する。
なお維茂の子孫は、阿賀野川流域を中心に支配を広げ、城氏を始めとする越後平氏として鎌倉時代初期まで勢力を維持することになる。
◆平等寺
寺伝によると、創建は長徳元年(995年)、平惟茂による。惟茂が船で川を下っている時、一寸八分の金色の薬師如来像を発見し、それを安置したのが始まりとされる。
アクセス:新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷