俵藤太藤原秀郷の墓
【たわらのとうたふじわらのひでさとのはか】
国宝・投入堂で有名な三徳山三佛寺から県道21号線をさらに東へ数km。交差する県道280号線を北上するとあるのが、俵藤太藤原秀郷の墓である。
俵藤太といえば、近江国瀬田の唐橋で龍王から百足退治を頼まれ、三上山を七巻き半する大百足を退治した伝説で知られる。また後年、藤原秀郷と名乗り、下野国の押領使として勢力を広げ、平将門の乱を鎮定した歴史的功績でも知られる。しかしいずれにせよ現在の鳥取県、伯耆国とは全く接点を持たないはずの秀郷の墓が、1000年以上にわたってこの地で大切に残されているのである。
地元に残されている伝承によると、関東で秀郷と戦った平将門が戦況不利とみて西へと敗走。ついには伯耆国に至り、中津の村に隠れ潜んだという。同じく秀郷も将門を追って伯耆国へ入り、中津の村の近くまで辿り着いた。だが、この地まで追い詰めた秀郷の胸中にはもはや将門と一戦を交えて討ち取ろうという気はなく、それどころか武器を手にして戦うことそのものの虚しさを強く感じていた。そこで秀郷は郎等達と共に武器を捨てて、この地を開拓して定住すると決めた。そして出来たのが“俵原(たわら)”の集落であり、秀郷はここで天寿を全うしたとされる。この地において秀郷は歴戦の英雄ではなく、集落を開拓した祖先として篤く敬われいるのである。
そして俵原の公民館のそばに俵藤太を祀った祠があるらしく、実際に該当地を探訪するとそれらしきものがあった。だが、果たしてそれが本当に俵藤太を祀る祠なのかは不明。一応画像を公開しておく。

<用語解説>
◆中津の村
現在の三朝町中津地区の集落。俵原のほぼ真南に位置し、県道33号線が通っている。この地に平将門が隠れ住んだという伝説も残るが、あくまで口碑のみとなっている。だが同時にこの集落は、その200年以上後に壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門が安徳天皇を奉じて隠れ住んだ平家の隠れ里として知られ、実際この地区には“平家一門の墓”という石碑が建てられ、安徳天皇の墓とされる塚が残されている。
想像を逞しくすると、この平家の落人伝説と“俵原”という地名から、土地とは全く関連性のない平将門と藤原秀郷の伝説が新たに作り出された可能性があるかもしれない。
アクセス:鳥取県東伯郡三朝町俵原

