若宮神社/矢止の松

【わかみやじんじゃ/やどめのまつ】

『西讃府志』によると、源三位頼政は讃岐国多度郡に所領を持ち、三井村に居を構えていたという。そして現在もその周辺に頼政関連の伝承地が存在する。

三井村にあった居館跡とされている場所には、若宮神社が建つ。祭神は源頼政で、次のような由来がある。以仁王の令旨で挙兵した頼政が宇治の平等院で自害して果てた後、頼政の後裔を名乗る須藤氏がこの三井村に定住し、頼政を祀った祠を建てたという。その後須藤氏は村の大庄屋となり、生駒氏が讃岐を治めていた頃に社を再興しようとしたが、火災で所蔵の装束・旗などが焼失したという。あるいは別伝では、頼政の家臣であった須藤氏が頼政の遺髪を携えてこの地に戻ってきて、それを祠に納めて祀ったという。

この若宮神社から南東へ1km程離れた場所にあるのが“矢止の松”である。現在も何代目かの松の木が植えられ、故地である旨の石碑が置かれている。三井村の居館から南に向かって頼政が遠矢を放ったところ、この松に矢が引っ掛かったことからこの名が付いたとされる。しかしこの伝説には、さらに“鵺退治”で名を馳せた武人らしい壮大な話が付け加えられている。

別伝によると、頼政が遠矢をした目的は、矢止の松のさらに南に位置する筆ノ山に棲む“大百足”退治であったとする。若宮神社から約3km離れた山に陣取る大百足に向かって頼政は遠矢を試みるが、1本目2本目と放った矢はことごとくこの松に当たってしまい、大百足まで届かない。そこで渾身の力を込めて3本目の矢を放つと見事大百足に命中、無事に退治できたという。

<用語解説>
◆『西讃府志』
安政5年(1858年)に完成した、丸亀藩京極氏の命によって編まれた地誌。各村から明細帳を提出させ、約20年を掛けて作成。地誌だけではなく讃岐の歴史もまとめている。

◆源頼政と讃岐国
源頼政(1106-1180)が讃岐国に所領を持ったかについての史料はなく、三井村に居館があったことは伝説に過ぎない。だが、頼政の実娘に、歌人で名高い二条院讃岐がおり、この名から頼政と讃岐国が結びつけられた可能性がある。

◆百足退治の伝説
武人の百足退治と言えば、瀬田の唐橋にまつわる“俵藤太の百足退治”であるが、この高名な伝説と頼政の伝説とは共通点が多い。
・山に巻き付く大きさ
 俵藤太の退治した大百足は三上山を七巻き半する大きさであり、対して頼政の退治した大百足も筆ノ山に棲み着くものとされる。三上山も筆ノ山も共にその姿が円錐形をして整った姿の山である
・3本目の矢で仕留める
 俵藤太は最初2本は命中するものの百足の身体が堅いため撥ね返される。そして3本目は矢尻に唾をつけて見事に射抜いて退治した。対して頼政は最初の2本を松の木に当てて失敗。3本目で命中させて退治している
おそらく頼政の伝説は、俵藤太の伝説をモチーフとして構成されたのではないかと推測される。

アクセス:香川県仲多度郡多度津町三井(若宮神社)
     香川県善通寺市弘田町(矢止の松)