推恵神社

【すいけいじんじゃ】

推恵神社の祭神は日御碕神社68代宮司・小野尊俊検校、知る人ぞ知る祟り神である。著名な神社の宮司が何故祟り神となってしまったのか、そこには夫婦の強い結びつきと、権力者に対する激しい怒りの伝説がある。諸説あるが、『雲陽秘事記』などによる顛末は以下のものになる。

ある時、松江藩松平家2代目の綱隆が日御碕を訪れ、宮司の尊俊が饗応した。尊俊は神通力を有しており、その時も沖を走る船を自在に操るなどの術を披露したが、藩主の目には夫の尊俊と共に饗応に当たっていた妻の花子の美貌しか映っていなかった。城に戻ると早速、綱隆は花子の実父である家老の神谷備後に対して、娘を尊俊と離縁させて側室として城へ参内させよと無理な要求をした。さすがにこれは出来ないと備後が拒絶すると、今度は尊俊に対して難題を突き付けて離縁せざるを得ない状況に追い込もうと画策し始めた。そして尊俊夫妻がそれを撥ね付け続けると、綱隆は遂に尊俊の見せた術がキリシタンの術であるとの難癖をつけて、無実の罪で隠岐に流罪としたのである。

流罪となり悲憤する尊俊は、藩主への怨みを晴らすべく100日間の修行を積み、白幣が立ったまま出雲の浜へ流れ着くよう念じたが、上手くいかない。諦めかけたところ、老人が現れ「さらに50日修行せよ」と言われ、精進を重ねて遂に白幣は立ったまま出雲の浜へと流れていった。

その数日後、加賀潜戸のあたりに真っ白な鷹が1羽現れた。浦人が捕らえて藩主に献上したところ、綱隆はそれを見るなり恐怖におののき、白鷹は城の外へ飛び去っていった。綱隆の目には鷹ではなく、白装束に身を包んだ尊俊が睨みつける姿が映っていたのである。

白鷹はやがて尊俊と妻の花子の許を往復した。その間も綱隆は執拗に神谷家に花子を城へ連れてくるよう命じたため、ついに花子は夫への操を立てて自害に及んだ。白鷹によって妻が自決に追い込まれたことを知るや、尊俊は三日三晩かけて呪詛を施し、自らも絶命した。延宝2年(1674年)、事の発端からわずか1年程の悲劇であった。

その後松江城内では異変が続き、翌年には綱隆は45歳で急死する。その後も出雲では災害が続いて財政が逼迫し、藩主にも不幸が降りかかった。そして尊俊が亡くなって60年近く経った享保18年(1732年)、6代藩主宗衍の命によって、松平家の別荘地であった楽山に尊俊を祀る推恵神社が創建された。年2回の祭礼では庶民に楽山を開放し、富籤を開催する、芝居小屋を設けるなど多くの参拝者を集めるよう藩が押し進めたのは、全て尊俊の霊を慰めるためであったと言われる。

さらに尊俊が亡くなった隠岐の地には廟が設けられていたが、そこにも同時期に推恵神社が建てられ、島民には“五穀豊穣・虫封じ”の神として長く崇敬されてきた。なお昭和15年(1940年)、推恵神社に隣接する隠岐神社の改築時に石棺が発掘され、中から半ばミイラ化した白骨体が見つかった。報を受けた日御碕神社宮司が現地で小野尊俊の遺体であると確認したとの逸話が残っている。

<用語解説>
◆『雲陽秘事記』
作者・成立年代とも不詳。松江藩松平氏初代の直政から6代宗衍までの藩主とその周辺人物の事績について書かれた実録物。

◆日御碕神社
出雲市の日御碕の突端近くにある神社。祭神は天照大神(下宮)と素戔嗚尊(上宮)。小野氏は素戔嗚尊の五世孫・天葺根命の末裔とされ、代々日御碕神社の検校(宮司)を司る家柄であり、現当主は98代となる。

◆松平綱隆
1631-1675。松江藩2代藩主。祖父は徳川家康の次男・結城秀康。父の治政末期より政情は安定せず、さらに経済対策の失敗なども重なり、藩政は混乱した。急死の際には、小野尊俊の祟りであるとの噂が流れた。

◆花子の最期についての諸説
尊俊の妻については正式な名に関する記述はなく“花子”と流布するのみである。またその死は自害であるが、時期や場所には諸説ある。
最も有名なものは、実家の神谷家で刃物で自決、父の備後が城へその首を持参して藩主に目通りさせた(小泉八雲『知られぬ日本の面影』)、あるいは実家の井戸に身を投げたという内容。また別説では、監視の目をかいくぐって夫のいる隠岐へ向かい、そこで夫の死を知って海に入水したとの話も残る。
なおかつての『松江市史』では、花子は松江藩江戸藩邸で生まれ、綱隆の養女となって小野家に嫁いだが、そのことで尊俊が増長したためやむなく離縁させて、尊俊を処罰。その後改めて神谷家(神谷備後の息子)に嫁がせたという展開になっている。おそらく藩主の醜聞であったため、顛末に合わせて改竄したものと考えられる。

◆綱隆以降の藩主
綱隆急死で3代藩主となった綱近は眼病による失明、嫡子の早世により、弟の吉透を4代藩主にして隠居。しかし吉透は藩主就任1年で病死、次男の宣維が8歳で5代藩主となる。この後天災が頻発してさらに財政難に陥り、再婚(初婚の相手は半年ほどで死去)に当たって相手方の宮家に婚姻延期を申し入れている(最終的に幕府からの援助によって成立)。この再婚によって誕生したのが6代藩主の宗衍であるが、父の死去によって3歳で後を継いでいる。

◆松平宗衍
1729-1782。母親は伏見宮邦永親王の王女・岩宮(天岳院:8代将軍吉宗御台所の姪、9代将軍家重御台所の異母姉)。1732年に推恵神社創建の命を下しているが、実際は実母である天岳院の指示によると推測される。成人後は合議制から藩主自らの親政をおこない一定の成果を上げたが、災害などによって出費がかさんで失敗。失政を理由に次男の治郷(不昧公)に家督を譲り隠居。隠居後は数々の奇行の噂が絶えなかった。

◆“推恵”の名の考察
推恵神社の名は、一般には【恵を推す】という意味で付けられたとされる。ただその語源として<推尊(崇め尊ぶ)>及び<俊慧(優れて賢い)>の2つの漢語が類推され、実は【推慧(恵)】には【尊俊】の名が隠し込められているとの説がある。

◆もう一つの推恵神社
松江と隠岐以外にももう1ヶ所、日御碕神社の近く(小野家の墓所近く)にも推恵神社が建てられている。この日御碕の推恵神社の祭神は尊俊道命(小野尊俊)と清操辺命の二柱。このもう一柱の神は、その文字から尊俊の妻・花子であるとされ、夫婦が揃って祀られている。

アクセス:島根県松江市西川津町市成
     島根県隠岐郡海士町海士