袴形池
【はかまがたいけ】
旧・車力村の北部に位置する袴形池は、その池の形が袴に似ていることから名付けられたとされるが、一方で不思議な伝説も残されている。
この池は現在は溜池として整備されているが、元は低湿地帯に出来た潟で“袴潟”と呼ばれていたという。そしてその“袴”の名は、かつてこの方のそばに平将門の屋敷があり、そこにいた侍女に降りかかった災難が由来とされる。ある時、侍女がこの潟で自分の袴を洗っていると、何かのはずみで流してしまい、それを取ろうとして誤って落水して亡くなった。この事故から“袴潟”と呼ばれ、現在の名になったという。
関東から遠く離れた陸奥の地に平将門の伝説が登場するのはあまりにも脈絡がないが(おそらくこの池の伝承が平将門伝説の最北端のものと思われる)、これは地元に伝わる伝説の呼称が変化して、有名な武将の名にすり替わったと考えられる。地元に残る伝説では、この潟のそばに館を構えていたのは“正子どの”と呼ばれた武人であり、この“まさこどの”の呼び名が“まさかど”となったのだろうと推測される。
だがこの“正子どの”なる武人も、この地に忽然と登場した人物で、来歴がほとんど伝わっていない。地元に残る伝承では、元弘2年(1332年)に鎌倉御家人の柾子(まさこ)弾正という人物が京からこの地に入部したとされる(あるいは安東氏を頼ってこの地に来たとも)。この弾正が築いたのが“柾子館”という城で、袴形池から約1km程南ある旧・車力村の中心街の東端に残っているらしい。しかし柾子弾正については、この地に来るまでの来歴も、さらにこの地入部してからの事績も不明である。ただ、柾子弾正が京からこの地まで牛車に乗ってやって来たことから“車力”という地名が始まったという伝説が、今もまことしやかに伝えられるだけである。
アクセス:青森県つがる市車力町