新田神社
【にったじんじゃ】
東急線武蔵新田駅周辺には、南北朝の武将・新田義興にまつわる史蹟が点在する。義興は父・新田義貞の没後、関東の新田一族を率いて室町幕府軍(北朝方)と武蔵を中心に戦いを繰り広げていた。その剛勇ぶりのため、関東公方足利基氏の執事・畠山国清は、竹沢右京亮と江戸遠江守を使い、謀殺を試みる。竹沢・江戸両名は寝返ったと見せかけて義興に近づき、しきりに鎌倉攻めを進言する。そして延文3年(1358年)10月10日、近習のみを率いた義興は、多摩川の矢口の渡しで両名の裏切りに遭う。13名の側近は討ち死にあるいは自害し、義興も船上にて腹を切り、自害して果ててしまうのである。
ところがその直後から、この渡し場付近に怪光が飛び交い、義興の怨霊が雷神と化し、謀殺に関わった者はことごとく変死したという。このため義興が葬られた塚に建立されたのが新田神社である。建立された年が1358年と、謀殺と同じ年になっているのは、それだけこの謀殺が悲惨なものであり、また義興の祟りが凄まじかったことを 意味していると言えるだろう。
その後江戸時代になると、新田神社は隆盛を極める。徳川氏は家系図上、新田氏が祖先となっているからである。そして明治の廃仏毀釈後も神社は残り(南朝方の武将は全て天皇家の忠臣とみなされる)、現在に至っている。
新田神社の本殿裏には、義興が葬られたとされる塚が控えている。この神社を建立する場所として選定された目印になった塚である。言うならば、本当の意味での御神体である。現在は完全に柵で囲まれて入ることが物理的に不可能になっているが、昔からここは“荒塚” あるいは“迷い塚”と称されて、この塚に立ち入ると抜け出られなくなるという伝承が残されている。
そしてもう一つ、新田神社に残る伝承は“唸る狛犬”である。義興謀殺を企んだ畠山一族の者がこの神社に近寄ると、この狛犬が唸りをあげ、雨が降るという伝承である(現在、この狛犬は戦災によって一体だけが残されており、神社の境内の一角に祀られている)。
<用語解説>
◆新田義興
1331-1358。南朝の武将である新田義貞の次男。足利将軍家の不和に乗じて1352年に関東で挙兵し、一時は鎌倉を攻略する。足利尊氏死去直後に謀殺される。祟りの顛末については、平賀源内によって書かれた『神霊矢口渡』という歌舞伎芝居でも有名となる。
アクセス:東京都大田区矢口