精忠神社

【せいちゅうじんじゃ】

創建は正徳2年(1712年)、徳川譜代の鳥居氏が壬生藩主として転封された年である。祀られているのは、鳥居氏の藩祖の父である鳥居元忠である。

元忠は徳川家康の駿府人質時代から側近として仕え、三河統一の戦いから数々の武功を挙げてきた古参の家臣である。しかしその最高の勲功は伏見城の戦いである。

会津討伐へ自ら出陣するため大坂を離れる家康から、直接伏見城の留守居役を命ぜられる。家康が大坂を離れればすぐさま石田三成ら反徳川勢が蜂起することが必至の状況下で伏見城の守りに入ることは、言うまでもなく城を枕に討死せよと命じているに他ならない。だからこそ家康はこの役目を幼い頃から仕えてきた元忠に託したのである。そして元忠も捨て石になる覚悟から、城兵を最小限まで削ってくれるよう頼んだという。

家康の軍勢が大坂を発つとすぐに石田三成が挙兵、約40000の兵で取り囲み開城を要求してきた。元忠は使者を斬り捨てると1800の兵で籠城し、伏見城の戦いが始まる。一進一退の戦いが各所で繰り広げられたが、13日目、遂に城は破られ城兵はことごとく討死した。元忠も鈴木重朝と一騎打ちの末に討ち取られたのである。

創建当初は壬生城二ノ丸隅に建てられた社であるが、寛政11年(1799年)吉田家より“精忠霊神”の神号が与えられたのを機に本丸に移設、さらに嘉永2年(1849年)元忠二百五十回忌に際して二ノ丸(現在地)に移設された。

現在、社殿の奥には畳塚と呼ばれる塚がある。元忠が最期に自刃する時に座していた血染めの畳は、その後江戸城伏見櫓の中に安置され、登城する諸大名に対して徳川家への元忠の忠義を示すものとして残された。しかし江戸城が無血開城した後に鳥居家に引き渡され、明治になって境内にその畳を埋めて塚を築いている。

<用語解説>
◆鳥居氏
元忠の跡を継いだ忠政は、徳川譜代の大大名として山形22万石を領した。しかし2代・忠恒は無嗣のため寛永13年(1636年)に改易となる。この際本来であれば家名断絶となるところを“元忠の功績”を理由に忠恒の異母弟・忠春が高遠3万石を新たに領して家名を残した。ところが元禄2年(1689年)に次代の忠則は家臣の不始末で閉門中に急死(一説では自害)、失政を理由に再び改易となる。この時も“元忠の功績”により特例として家名が維持され、嫡子の忠英が能登下村1万石が与えられた。この忠英がその後近江水口2万石、さらに壬生3万石に加増され移封される。以降鳥居家は壬生藩主として明治維新を迎える。
2度にわたる改易処分を受けながら、家名断絶とならなかったのは、ひとえに伏見城の攻防での元忠の働きが幕府にとっていかに大きいものであったかを示していると言える。

◆鈴木重朝
生没年不詳。雑賀衆の武将であるが、雑賀孫一重秀との関係は不明。関ヶ原の戦いでは西軍に属したために改易となる。その後徳川家に召し抱えられ、水戸徳川家の重臣となる。子孫は雑賀氏を名乗り、水戸家重臣として代々仕える。また一騎打ちで鳥居元忠を討ったことから元忠着用の鎧を得ており、家宝として代々伝わっている。

アクセス:栃木県下都賀郡壬生町本丸