天誅組終焉之地/天誅義士墓所

【てんちゅうぐみしゅうえんのち/てんちゅうぎしぼしょ】

後年「維新の魁」と讃えられる天誅組は、結成から壊滅までわずか40日ほどの僅かの期間のみ歴史に登場する。しかもその活動は現在の奈良県南部に限定される。

文久3年(1863年)8月13日、朝廷は孝明天皇の大和行幸の詔を発する。これは、天皇による神武天皇陵参拝から軍議を開き、攘夷を実行しなかった幕府に対して天皇が親征をおこなうという、朝廷内の過激な尊王攘夷派の画策によるものであった。これに呼応したのが土佐脱藩浪士の吉村寅太郎らと公家の中山忠光である。彼らは翌日ただちに徒党を組んで、天皇親征の先兵として奈良へ入ることを決めた。その数約40名、これが天誅組の始まりである。

天誅組は、17日夕刻に奈良五條に到着。早速幕府直轄地の代官所を襲撃して、代官を殺害して気勢を上げる。ところが彼らの過激な実行とは裏腹に、翌18日未明に京都では政変が起こり、過激な尊王攘夷派7名の公卿が追い落とされ、後ろ盾であった長州藩も締め出されてしまう。それに対して天誅組は、間もなく尊攘派が実権を再度掌握すると判断、このまま自分たちの活動を継続することを決める。そし寅太郎が伝統的に尊皇派の十津川郷を訪れ、十津川郷士約1000名の加勢を得たのである。

一方幕府は事態を重く見て近隣諸藩に討伐の命を下すが、各藩とも天誅組の実態が把握出来ず様子見を決め込む。対する天誅組は8月終わりに高取藩に攻撃を仕掛けるが、高取藩が撃退すると、徐々に弱点を露呈し始める。主力の十津川郷士の装備が貧弱、主将の中山忠光の指揮がちぐはぐで、隊士への指揮系統も杜撰極まりなかった。そしてこの敗北を機に離脱者が現れる事態となる。

9月15日、朝廷が天誅組を逆賊とみなす知らせがもたらされると、十津川郷士が離脱。そして進退窮まった中山忠光は天誅組解散を決める。あとは脱出するために山間を彷徨うが、諸藩は既に脱出路を封鎖して包囲を狭めていた。

9月24日、主将の中山忠光を逃がすため、残った隊士が血路を開こうと鷲家口にあった敵陣中に斬り込みを仕掛けた。この戦いで天誅組の多くは討死、残った者も個々別に逃亡するに至った。忠光は奇跡的に河内に脱出したが、実質的な統率者であった3名の総裁は全員死亡した。25日、藤本鉄石は忠光を逃がすと敵陣に取って返して討死。同日、前の戦闘で失明していた松本奎堂は狙撃され死亡。そして27日、高取の戦いで負傷して歩行困難となっていた吉村寅太郎は自害の直前に一斉射撃で絶命したのである。

幕府に対して最後まで抵抗した寅太郎が亡くなった場所に「天誅組終焉之地」の碑が立つ。ここには寅太郎が最期に潜んでいた大岩(寅太郎が「残念」と言って絶命したので“残念岩”と呼ばれるらしい)があり、遺骸が埋葬され最初の墓が建てられた「吉村寅太郎原瘞処」もある。

さらに24日以降に亡くなった隊士の墓も東吉野村に2ヶ所ある。25日以降に亡くなった藤本鉄石・松本奎堂ら5名の墓がある湯ノ谷墓所、24日の決死隊を率いた那須信吾ら8名と吉村寅太郎の墓がある明治谷墓所である。いずれも明治27年(1894年)になってから村人によって造られたものである。

明治谷墓所に祀られた墓石の奥には旧墓石が置かれているが、吉村多良太郎のものだけは別に墓所の隅に立てられている。この墓石は死後間もなく村人が造ったもので、何故かこの墓に参って願い事をするとご利益があるとの噂が広がり、近隣からの参拝者が激増した。それを見咎めたのが五條代官所で、逆賊を崇めるとは何事かと、墓石を川へ投げ捨ててしまった。そしてこの暮地へ改葬される際に引き上げられたとされる。

 

<用語解説>
◆吉村寅太郎
1837-1863。土佐藩の庄屋で、武市半平太を通じて土佐勤王党に加わる。諸国の尊王攘夷派志士と交流、京での挙兵計画に賛同して土佐勤王党を抜けて脱藩する。寺田屋騒動で捕縛されて強制帰国・投獄となるが、短期間で釈放される。文久2年には再び京都へ赴き、攘夷実行を模索して中山忠光と共に長州へ行き、5月の長州藩による攘夷実行(関門海峡での外国船砲撃)に参加する。この頃長州で天誅組結成の同士らと接触。8月の大和行幸の詔を受けて挙兵をおこなう。
明治になってから名誉回復、明治24年(1891年)正四位贈位。坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山と共に「土佐四天王」と呼ばれる。

◆中山忠光
1845-1864。従四位侍従。父は中山忠能。また同母姉に慶子がおり、明治天皇は甥にあたる。父が朝廷の議奏であったことから多くの尊王攘夷派の論客が家に出入りしており、それに感化され過激な尊攘派となる。文久2年に京を抜け出して長州の攘夷実行に参加。その後京へ戻り、天誅組の結成と同時に主将となる。
天誅組の乱に敗れた後、長州に潜伏。しかし翌年長州藩内が幕府恭順に傾くと、危険分子として藩の刺客により絞殺される。

アクセス:天誅組終焉之地:奈良県吉野郡東吉野村鷲家
     天誅義士墓地:奈良県吉野郡東吉野村小川

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