田村神社

【たむらじんじゃ】

東海道の難所の1つとされた鈴鹿峠の北に位置する神社である。創建は弘仁3年(812年)。嵯峨天皇の勅命によって坂上田村麻呂を祭神として祀ったことから始まる。古来より坂上田村麻呂と鈴鹿峠にあつわる伝承は広く知られているが、その内容は複雑に入り組んでいると言える。

田村神社では“嵯峨天皇の勅命を受けた田村麻呂が鈴鹿峠に棲む鬼を退治した”とその由緒がさらりと書いてあるが、この鬼の正体が大きく2通りある。『御伽草子』にある「田村の草子」などでは、鬼の正体は身の丈30mにもなる大嶽丸を退治したとあり、その退治に深く関わっているのが鈴鹿峠に棲む天女の鈴鹿御前とされる。ところが別説では、この鈴鹿御前こそが鬼女として名高い存在であり、田村麻呂はそちらを退治したとしているのである。

さらに他の説では、鈴鹿御前は別名・立烏帽子と呼ばれる女盗賊で鈴鹿峠で追い剥ぎをしていた、あるいは女盗賊の立烏帽子が深く信仰していた鈴鹿峠(鈴鹿山)の山の神であるなど、とにかくさまざまな性格を持つ存在として伝えられている。善悪両面を持ち、人であり鬼であり神でもある存在なのである。

しかし田村神社の創建にまつわる伝説はそれだけではなく、鈴鹿御前が直接関わらない展開もある。田村麻呂が鈴鹿峠と関わりを持つのは、大同5年(810年)に起こった“薬子の変”の時とされ、嵯峨天皇の命を受けた田村麻呂が、鈴鹿峠に兵を置く藤原仲成の勢力を打ち破ったことがきっかけであるという。田村麻呂の死後の弘仁2年(811年)の秋に畿内を中心に疫病が蔓延、その原因は前年に平らげた鈴鹿峠の賊軍の祟りと託宣を受け、鈴鹿山の颪の吹く山の斜面に田村麻呂を祀って悪疫を封じるよう嵯峨天皇が勅命を出したのが創建であると記したものも存在する。

このような伝承を持つ田村神社の主たるご利益は、厄除けと交通安全となっている。

<用語解説>
◆坂上田村麻呂
758-811。平安初期の武官。延暦16年(797年)に征夷大将軍に任ぜられ蝦夷へ遠征。その後も蝦夷地へ度々遠征や城造営をおこなう。弘仁元年(810年)薬子の変において大納言となる。翌2年に没。甲冑兵仗を帯びて立ったまま埋葬され、死後も平安京守護を司ったとされる。

◆「田村の草子」
人間と大蛇の間に誕生した俊仁将軍が、妻を奪った悪路王を退治しに陸奥国へ行く途中、田村という土地で下賤の女と一夜を共にしたことで生まれたのが田村丸(稲瀬五郎坂上俊宗)である。田村丸は奈良の化生を退治した後、鈴鹿山に棲む鬼神・大嶽丸を退治するよう帝から命じられる。しかし鬼は術を使って姿を隠しており見つけることが出来ない。その頃鈴鹿山に鈴鹿御前という天女が降臨し、田村丸と契りを結び大嶽丸退治の手助けを約束した。鈴鹿御前は、以前から懸想している大嶽丸を上手く騙して、術の根源である3本の太刀のうち2本を預かることに成功。翌日しこたま酒を飲ませたところに田村丸が現れて大嶽丸と戦い、仏の加護もあって見事にその首を打ち落とした。
その後近江国の高丸を討伐したが、翌年になると天竺に残された太刀を元に大嶽丸が甦り、再び来日して陸奥国霧山岳に城を築いた。そこで田村丸は少しの手勢と鈴鹿御前と共に陸奥国へ攻め入り、再び首を打ち落とした。首は宙高く舞い上がると田村丸の兜に噛みついたが、そこで絶命。一行は大嶽丸の首を都まで運び、平等院の宝物蔵に収めた。
その後、今生の縁が切れてしまった鈴鹿御前は、二人間に出来た娘の聖林を残して亡くなり、田村丸もその悲しみから死んでしまう。冥途へ行った田村丸は十王に鈴鹿御前を返すよう求めたが、日が経っていたため別人の身体に魂を戻したところ、田村丸は怒った。そこで妙薬を以て元に姿に戻すと、娑婆での45年間の暇を貰った。こうして田村丸と鈴鹿御前は再び生き返り、二世の契りを結んだのである。

◆盗賊・立烏帽子
鈴鹿山(鈴鹿峠)を根城としていた盗賊。『保元物語』に賊として捕らえられたと記されるが、特に性別は定かではない。また『弘長元年十二月九日公卿勅使記』(1261年)では、「蟹ヶ坂付近に立烏帽子の住処があって、鈴鹿姫が祀られている」との記述があり、盗賊と鈴鹿姫が別の存在であることが分かる。さらに応永25年(1418年)に書かれた『耕雲紀行』では、坂上田村麻呂が鈴鹿姫を討ち、鈴鹿姫が立烏帽子を投げたところ石となったという逸話が残されている(この石は鈴鹿峠にある鏡岩と推測される)。
このように鎌倉~室町時代にかけて、鈴鹿峠にいた稀代の盗賊が女で、さらに鈴鹿姫(鈴鹿御前)という信仰の対象と同一視され、坂上田村麻呂の物語がそこに加えられたという流れが見て取れる。

◆薬子の変
大同5年(810年)に発生した政変。譲位した平城上皇が、弟である嵯峨天皇の政治に対して不満を持ち、平城京へ移って復位を目論んだことによって生じた。平城上皇の寵臣であった藤原仲成・薬子の兄妹が積極的に加担したことから“薬子の変”と呼ばれている。
先に動いた平城上皇に対して、嵯峨天皇側は藤原仲成を捕縛(その後処刑)、さらに挙兵を試みた上皇一行を坂上田村麻呂の軍勢が牽制して諦めさせ、上皇は剃髪して出家、藤原薬子は毒を仰いで自害した。

アクセス:滋賀県甲賀市土山町