頭塔
【ずとう】
古い民家が建ち並ぶ町の一角にある遺跡である。入口の鍵を管理されている民家へ声を掛けて、拝観料を払い、中に入る。入口は周囲の民家に合わせたように木の格子戸、そこからコンクリート製の階段を上ると、いきなり異空間に迷い込んだかと錯覚に陥るような場所に至る。そこにあるのは、紛れもない“階段ピラミッド”である。これが頭塔である。
頭塔は、一辺約30mの方形、高さ10mの七層の階段状に重ねられた建造物である。ただし日本国内では殆ど見ることの出来ない構造の塔であり、それだけにその姿は奇異と言うしかない。
造られたのは神護景雲元年(767年)。東大寺の僧・実忠が造営に関わったとされる。大正時代に史跡に指定。各層には線刻された石仏が安置されており、そのうち22基は重要文化財に指定されている。昭和時代の調査を経て、現在見られるようなものに復元修復された(入口側の一部は修復せず、現状保存)。
“頭塔”という名であるが、おそらく“土塔(どとう)”と呼んでいたものが訛ったものと推測される。ただ“頭”の文字を当てたことには、奇怪な伝説が残されている。
この塔は、聖武天皇に仕えた僧・玄昉の首が埋められた墓である。玄昉は政争に敗れ、大宰府に左遷されたが、その翌年に亡くなった。しかしその死は凄惨なもので、観世音寺造立供養の導師として読経している最中、いきなり黒雲より大きな手が伸びて玄昉の首をねじ切ってしまう。そして後日、その首は奈良の興福寺に落ちてきたという。これは、玄昉を排除しようとして兵を挙げて敗死した藤原広嗣の怨霊のなせるものであると言われている。
<用語解説>
◆実忠
726-?。良弁(東大寺初代別当。幼少時に鷲にさらわれたという伝説がある)の弟子。東大寺の造営や財政を担当する。東大寺二月堂の修二会(お水取り)を始めたと伝えられる。
◆玄昉
?-746。遣唐使僧として入唐し、玄宗皇帝より紫衣を下賜される。帰国後は藤原宮子(聖武天皇の母)の病気を治したことで天皇の寵を得て出世。橘諸兄の政権では、吉備真備と共に政治の実権をにぎった。その後、藤原仲麻呂の台頭によって、大宰府にある筑紫観世音寺別当に左遷。翌年死亡。墓(胴塚)は観世音寺の脇にある。
政権の中枢にあった頃より多くの批判を浴び、藤原広嗣の乱も吉備真備・玄昉の排除が目的であった。正史である『続日本紀』には、その突然の死が“広嗣の祟り”であると明記されている。また藤原宮子や光明皇后とも性的な関係があったのではという伝説も残されており、悪僧との印象が強い。
アクセス:奈良県奈良市高畑町