荻生地蔵
【おぎゅうじぞう】
大聖寺の町は、寛永16年(1639年)に加賀藩から分離独立した大聖寺藩7万石(後に10万石)の陣屋が置かれた城下町である。一国一城令が出されるまでは、錦城山という標高63mの小高い山の上に城が築かれていたが、破却。大聖寺藩も最後まで城を築かず、麓に陣屋を置いて、錦城山は“お止め山”として一切の立ち入りを禁じていたという。
天下分け目の争いと呼ばれた関ヶ原の戦いの頃。大聖寺は山口玄蕃頭宗永が治めており、隣接する小松・丸岡・北ノ庄といった諸大名と同じく西軍に属して、東軍の前田利長と対峙していた。そして伏見城の攻防が始まる頃、前田利長は25000の兵を率いて金沢を南下、まず小松城を攻めた。しかし堅城で名高い小松城は落ちない。膠着状態に入った前田勢は8月に入って突如守兵を残してさらに南下し、玄蕃頭の守る大聖寺城を攻めに掛かった。前田勢20000に対して玄蕃勢は1000程度しか兵がおらず、しかも前田勢の動きが速いため援軍要請も叶わず、さらに緒戦の野戦で多くの家臣が討ち死にしたため、一両日で落城。玄蕃頭と嫡男は城を脱出するも、数日後に自刃して果てたのである。
この大聖寺城があった錦城山北側の麓に、小さなお堂と祠が建っている。祠の中に安置されている三角形の石が荻生地蔵と呼ばれるものである。これは山口玄蕃一族の冥福を祈って、前田家の者が造ったとされており、大聖寺城本丸の櫓の石垣を使ったものであると言われている。またお堂には明治34年(1901年)に造られた荻生延命地蔵と呼ばれる地蔵で、近隣の者が山口玄蕃方とおぼしき者の亡霊に悩まされるのを聞いて建立されたものとされる。
<用語解説>
◆山口玄蕃頭宗永
1545-1600。山城国出身。豊臣秀吉の家臣となるも、小早川隆景の養子となった秀秋の付家老となる。しかし秀秋とは折り合いが悪く、朝鮮の役での不手際によって秀秋が北ノ庄へ転封と決まった際に、先に大聖寺へ転封。後に秀秋の転封が取りやめになるが、玄蕃はそのまま大聖寺を領してそのまま秀吉の直臣に戻った。以後前田利長との戦で落城・自刃するまでこの地にあった。
◆山口玄蕃の祟り
大聖寺城の戦いの時、山口玄蕃は落城前に降伏の意を示したが、先に降伏を促すも拒否され、さらに予測以上の戦死者を出した前田利長がそれを認めず、玄蕃は恨みを飲んで自刃したとされる。そのためか、廃城となった大聖寺城跡である錦城山に前田家の藩士が立ち入ると、簪を挿した蛇や、お歯黒をつけた蛇が現れて襲うとの噂が残る。これらの蛇のあやかしは山口玄蕃以下の婦女子の亡魂が化身したものであると言われた。
アクセス:石川県加賀市大聖寺荻生町