壺井地蔵

【つぼいじぞう】

京都の刑場と言えばまず粟田口刑場の名が挙がるが、それに対して西ノ京円町付近にあるのが西土手刑場である。

京都における処刑は“果ての二十日”と呼ばれる12月20日のみおこなれる。六角獄舎を出た罪人は市中引き回しとして馬に乗せられ、三条通から油小路通を北へ行き一条戻橋で一旦休憩する。ここで餅などを与えられ、また再び室町通りを南下、三条通を経て新町通をさらに南へ行き、新町松原に辿り着く。ここで浄国寺の僧が十念称名を授ける。

ここまではどの罪人も同じであるが、この新松松原で東西の処刑場に振り分けられ、西へ経路を取った者が西土手刑場で処刑されることになる。

西土手刑場家の経路は松原通を西へ、油小路通から三条通、更に千本通を経て二条通を西へ行って刑場に達したとされる(あるいは松原大宮から北へ、三条大宮から西へ御土居を越えていく経路)。

壺井地蔵は、佐井通と太子道(旧二条通)が交わる辻にある。現在は綺麗な塀に囲まれた一角にあり、地蔵が置かれた真下には井戸がある。この井戸が“壺井”と呼ばれる名水として知られ、西土手刑場で処刑される罪人の末期の水として与えられた。このような曰くのある井戸の中から掘り出されたのが壺井地蔵であり、黒川道祐の『太秦村行記』にその旨が記されている。

なお西土手刑場跡は、この壺井地蔵から約150m程東にあったとされる。太子道と紙屋川が交わるあたり、竹林寺の墓地敷地内(西大路通から確認可能)であると推定されるが、その名残を見つけることは整備された無縁仏以外はほぼ出来ない。また罪人が末期の水を口にしたのは壺井地蔵の前であったのか、あるいは刑場の中であったのかもはっきりとしない。

<用語解説>
◆粟田口刑場跡
東海道から京都市中へ向かう粟田口にある処刑場。明治維新後に廃されるまでに約15000人が処刑されたとされる。詳しくはサイト内【粟田口刑場跡】を参照。

◆円町の地名
この西土手処刑場付近は「円町」と呼ばれ、現在もエリアの地名として広く使われている。しかしこの名称は刑場に関係するもので、「円」の旧字「圓」は「囚」の“人”の部分を“員”としてより多くの人を囲う(閉じ込める)という意味が込められているとされる。元はこの地に京都の西の獄舎が置かれており、これが移転したのが六角獄舎である。

◆太子道
旧二条通の別称であるが、これは聖徳太子が太秦の広隆寺を参詣する時に使用した参道であることを指している。現在では旧二条通の南にある新二条通も太子道と呼ばれている。

◆黒川道祐
1623-1691。黒川家は甲賀五十三家の一つとされる。父と同じく広島藩浅野家の儒医として仕えたが、京都に在住した。山城国の地誌『雍州府志』を著すなど、多くの旅行記や地誌関連の著作がある。

アクセス:京都市中京区西ノ京北壺井町