八ヶ竃八幡神社
【はちかがまはちまんじんじゃ】
志摩半島の南側、リアス海岸の入り組んだ海岸線が続くが、そこに約40ほどの集落が点在する。そのうち7ヶ所の集落には「竃」の文字が付く。これらの集落は平家の落人が興したものであると伝えられる。
言い伝えによると、紀伊熊野に隠遁した平維盛の子である行弘がその後も紀伊山中に隠れ住み、その3代後の当主である行盛が一族を率いて移り住んだのが始まりであるとされる。だが入り江の奥まった場所には耕作に適した土地は少なく、また新たに入植してきたために海での漁業権も持つことも出来ず、彼らはやむなく塩竃を築いて製塩業を営むことで生計を立てた。そのためどの集落も「竃」の文字が入ることになったという。
平行盛の子孫は、その後この一帯に大方竃・小方竃・栃木竃・新桑竃・相賀竃・道行竃・棚橋竃・赤碕竃という8つの集落を興して暮らした。これらの集落は同じ祖先を持つものとして結束が固く、「八ヶ竃」と呼ばれた。しかし安政元年(1854年)の大地震による津波で赤碕竃が流失廃村となり、現在は7つの竃が存続している。
大方竈にある八ヶ竈八幡神社は、江戸時代に入って、宇佐八幡宮を模して建造されたと社と伝わり、明治41年(1908年)に八ヶ竃各地にあった他の神社を合祀して、八ヶ竃全体の産土神となった。今もおこなわれる神事として「御証文受け渡し式」がある。現在は隔年におこなわれる儀式で、八ヶ竃の共有財である山の権利などを記した証文を各集落が当番で預かっているが、それを全集落の区長が集まって改めて次に当番に受け渡すというもの。かつては盛大な祭であったが、過疎化が進んだため受け渡しの儀式だけが残ったという。だが数百年間連綿と続く儀式だけは途切れることはなさそうである。

<用語解説>
◆平維盛
1159-1184?。平清盛嫡男・重盛の長男。後白河法皇50才の祝賀で青海波を舞い、その美貌と佇まいが絶賛された。武将としては以仁王の乱の鎮圧に成功するが、富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いで相次いで惨敗を喫する。一の谷の戦いの直前頃陣中より逃亡、その後の足取りは不明である。しかし当時より高野山で出家の後、熊野で補陀落渡海を敢行したとの噂が流れた。他にも各地に潜伏して生涯を終えたなどの伝説が残る。
アクセス:三重県度会郡南伊勢町大方竃