平維盛の墓

【たいらのこれもりのはか】

平維盛は、平清盛の嫡男・重盛の嫡男、即ち嫡孫と目された御曹子の中の御曹子である。その容姿の美しさは当時の公卿の日記になどにも記され、特に後白河法皇50歳の祝賀で、梅と桜の枝を烏帽子に挿して“清海波”を舞った姿から“桜梅少将”と呼ばれ、光源氏の再来とまで言われるほどであった。

ところが、父・重盛の病死から維盛の運命は暗転する。特に散々たる評価となったのは源氏との数々の戦いぶりである。治承4年(1180年)、挙兵した源頼朝を討つべく総大将として兵を率いて東下した維盛だが、富士川の戦いで夜陰に起こった水鳥の羽音を聞いて軍勢が瓦解、這々の体で京都へ戻って、祖父の清盛が激怒したしたのが始まり。さらに寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いでも総大将として惨敗、多くの兵を失っている。

そして翌年の一の谷の戦い前後、維盛は平家の陣から失踪する。度重なる敗戦、そこに父の死後は嫡流が叔父の宗盛の一族へ移ったことも相まって、平家一門の中でも孤立することが増え、行く末を儚んでの戦線離脱であるとされる。その後ははっきりした足跡は不明であるが、高野山で出家し、その直後に熊野の浜から補陀落渡海を敢行して命を絶ったとする説が有力である。

このようなやんごとなき方が生死不明となると、必ずと言ってよいほど様々な“生存説”が唱えられる。平維盛もその中の有名な一人であり、維盛の墓と称するものが全国に何ヶ所か存在する。山梨県にほど近い富士宮市上稲子地区にも、立派な供養墓が棚田の中央部にそそり立つ。

地元の伝説によると、維盛は熊野で入水したと見せかけて、さらに清水某と名乗って逃亡を試み、家臣の佐野主殿の手引きによってこの上稲子の地に潜伏したとされる。この地はかつて平重盛の所領であり、富士川の戦いで敗走した平家の兵が集団で暮らしていた地であったという。そこに身を置いた維盛は再起を図ろうとしたとも、あるいは自給自足の生活をしながら生を全うしたともされる。

現在残っている供養墓は天保11年(1840年)に再建されたもので、土地の者が領主である旗本松平氏に願い出て作り直したものである。この時期には村の名所であり、崇敬の対象でもあったようである。

<用語解説>
◆平重盛
1138-1179。平清盛の嫡男。小松内大臣とも称される。保元・平治の乱で活躍、平氏政権下で順調に官位を上げる。しかし妻の兄・藤原成親が鹿ヶ谷の陰謀の首謀者となり、父の清盛と主の後白河院の対立が激化する中で発病して死去。

◆富士川の戦い
水鳥の羽音を敵の襲来と勘違いして多くの兵が逃亡して大敗したとされるが、富士川で源氏方と対峙した段階で既に逃亡する兵が続出、また総大将の維盛と有力武将との間にも意見の相違があって、相当士気が下がった状態で戦に臨んでいたとされる。
なお維盛が隠れ住んだ上稲子の地と古戦場(現在の富士川ではなく、その東の吉原にある“平家越”碑あたりが実際の古戦場)とは直線で約20km弱ほどの距離がある。

アクセス:静岡県富士宮市上稲子

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