鏡の池

【かがみのいけ】

倶利伽羅峠の戦いで惨敗した平氏軍は加賀の篠原で陣形を立て直して、追ってくる木曽義仲の軍勢を迎え撃とうとしていた。しかしあまりにも悲惨な敗北に兵の士気は上がらず、さらに総大将の平維盛と歴戦の侍大将との間で意見の相違が続いたため、4万ともされた兵力も実際には敵との交戦に耐えるだけの力はなかった。

その中で、密かにこの一戦を自らの最期と定めた武者達があった。源頼朝の挙兵直後、石橋山の戦いで頼朝を散々に打ち破った、関東在の平家恩顧の武将たちである。彼らは、頼朝の勢力拡大で居場所を失い、敗軍の将として都では肩身の狭い思いをし、こうして木曽義仲との戦いに身を投じていたのである。その中には齢70を超える斎藤別当実盛もあった。

戦いが始まると間もなく平氏軍は敗走を始める。その中で殿軍にあって奇妙な騎馬武者があった。赤地の錦の直垂、萌黄威の鎧、黄金造りの太刀を佩いた侍大将とおぼしき武者だが、一人の従者も付けず殿軍を駆け回っている。良き敵と見つけた、木曽の家臣・手塚光盛が騎馬を寄せて戦いに臨むと応戦するが、最期は組み伏せられて首を掻き切られてしまったのである。

名乗りを拒否した武者の首を手塚が大将の木曽義仲の元へ届けると、義仲は即座に斎藤実盛であろうと察した。しかし幼い頃に会った頃には既に白髪交じりだった実盛にしては髪が黒々としている。不審に思った義仲は実盛と懇意であった樋口次郎を呼び寄せて首実検をおこなった。次郎は、かつて実盛が「戦場で老人と誹りを受けないよう、墨を塗って髪を黒く見せるのだ」と語っていたことを告げる。そして首を洗うと、墨が落ちて元の白髪頭となり、ようやく実盛であることが確かめられたのである。

最期の戦に臨んだ斎藤実盛が自ら髪を黒く染めたとされる場所が今も残る。それが鏡の池である。鏡を見ながら白髪を墨で黒く染め上げた実盛は「もはやこの鏡を使うこともなかろう」と、池に鏡を沈めて戦場に向かったとされる。そして今尚この池の底にはその鏡が残されている。毎年9月に池をさらって清掃をおこない、その際に鏡も引き上げられ公開される。鏡は銅製で、直径8.5cm。鶴や亀の紋様が施されたもので、石の箱の中に収められた状態で老将の形見として池の底にある。

<用語解説>
◆斎藤実盛
1111-1183。越前国の生まれで、武蔵の長井庄に所領を持っていた。大蔵合戦で源義賢が討たれると、その遺児の駒王丸を匿い、木曽へ送り出す。この駒王丸が後の木曽義仲である。平治の乱後は平氏に仕え、源頼朝挙兵時の石橋山の合戦でも平家方として参戦している。
平氏の将として北陸へ赴く際には既に戦で果てる覚悟をしていたとされ、平家の頭領・平宗盛に直接面会し、生国の越前を通る故に、高位の者しか身に着けられない錦の直垂を着用して出陣したいと許しを得ている。
また別説では、乗っていた馬が稲の切り株につまずき、実盛がそれが原因で討ち取られたとされ、この恨みによって“実盛虫”という稲の害虫に転生したと言われる。

◆篠原の戦い
寿永2年(1183年)6月、加賀国篠原で平家4万と木曽義仲5千の兵が戦った。前月の倶利伽羅峠の戦いに続いて、平家が潰走するという結果となる。これで勝利した木曽義仲の軍はその勢いのまま北陸道を上って、京へ侵攻する。

◆手塚光盛
?-1184。木曽義仲の有力武将の一人。篠原の戦いで斎藤実盛を討ち取った話が『平家物語』に残る。その後も義仲に付き従い、義仲討死直前まで残った最期の4騎の一人となった。史実ではこの地で討死とされるが、摂津国帝塚山に潜伏、あるいは郷里の信濃へ戻ったとの伝説も残る。漫画家の手塚治虫は自身を末裔であるとしている。

アクセス:石川県加賀市深田町