八遺臣の墓
【はちいしんのはか】
館山城は、安房の戦国大名・里見義頼が天正8年(1580年)に築いた城で、里見氏の居城となったのは豊臣秀吉による天下統一後のことである。里見氏はその後徳川氏と誼を通じ、江戸幕府成立後には12万石の国持大名となる。ところが慶長19年(1614年)になって、藩主の忠義が大久保忠隣改易に連座(妻が忠隣の孫にあたる)して館山藩は取り潰しとなり、城は破却された。それ故、館山城はわずか30年足らずしか主を持たない城であった。
現在は城山公園として整備された館山城跡であるが、その南側の谷地になった場所に“八遺臣の墓”と呼ばれる墓所がひっそりとある。
館山藩取り潰しとなった後、藩主の里見忠義は替地として伯耆国倉吉に3万石を得て転封となった。しかしそれは形式的なものであり、実際には4000石程度の賄い料しか与えられず、しかも3年後には池田氏が因幡伯耆の国持大名として転封されるに及び、所領は全て没収されてしまう。そして忠義は失意のうちに元和8年(1622年)に病没、倉吉にある大岳院に葬られた。
零落した里見氏であったが、館山から最期まで忠義に付き従ってきた近習が8名あったという。彼らは大岳院で主君の墓を守っていたが、約3ヶ月後に全員が殉死を遂げ、同じく大岳院に葬られた。これで長らく安房を支配した里見宗家は絶えてしまったのである。
ところが、忠義主従の死を伝え聞いた里見家旧臣らは、せめて殉死した者たちでも旧領へ戻してやろうと、漁師姿に身をやつして伯耆国へ潜入。大岳院にある墓から遺骨の一部を掘り出し、蛸壺に入れて館山まで持ち帰ったのである。そして既に破却された城跡の南側に密かに埋めて墓を築いたのである。
この8名の忠臣の正確な氏名は定かではないが、その戒名には全員“心”と“賢”の文字が入れられている。そしてこの“賢”の文字から、曲亭馬琴が『南総里見八犬伝』の着想を得たとされる。
雲涼院 心晴海賢居士 (徳治郎)
心相龍賢居士 (権八郎)
心龍盛賢居士 (権之丞)
心涼晴賢居士 (安五郎)
心晴叟賢居士 (總五郎)
心房州賢居士 (房五郎)
心盛宗賢居士 (總大夫)
心顔梅賢居士 (堀之丞)

<用語解説>
◆里見忠義
1594-1622。安房里見家10代当主で、安房館山藩2代藩主。妻の実家の改易に連座して安房一国を召し上げられるが、実際は江戸周辺にあった有力外様大名であったための排斥であるとされる。移封先の伯耆国で病死。嗣子はないとされ、大名としての里見家は断絶となる。しかし庶子がおり、後に旗本に取り立てられるなど、血統は残っている。
なお戒名は「雲晴院殿心叟賢涼御大居士」である。
◆大岳院
慶長10年(1605年)開創。関ヶ原の戦い後に伯耆国の国持大名となった中村一忠の叔父・一栄の菩提を弔うため、嫡男である倉吉城主の中村栄忠が開いた(中村氏は慶長14年に無嗣断絶のため改易)。転封後の忠義が帰依したことが縁となり、忠義以下八賢士の墓がある。(サイト日本伝承大鑑参照)
アクセス:千葉県館山市館山

