源頼朝の墓

【みなもとのよりとものはか】

鎌倉の街の基礎を作り上げた人物は言うまでもなく、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝である。だが、鶴岡八幡宮の裏手の小高い丘にあるその墓はすこぶる質素である。

頼朝の死は歴史的な謎の一つとされている。鎌倉幕府の正史ともいえる『吾妻鏡』において、頼朝の死去した前後の記述が意図的に省かれているためである。 とりあえずは1199年1月13日に落馬による事故が引き金となって死亡したとされるのだが、武家の棟梁としての面目が立たないためなのか、現在では乗馬中の心臓発作とか脳溢血ということで“合理的な”理由付けがなされている。

だが、江戸期に作られた『北条九代記』には、まことしやかに伝えられた奇怪な死因について語られている。頼朝は、自らの命で抹殺された怨霊によって殺されたというのである。

建久9年(1198年)12月27日、稲毛三郎が妻の冥福を祈って架けた橋供養に頼朝は出かける。その帰り、矢的原という場所にさしかかった時にただならぬ気配となり、そこに源義経主従や源行家の亡霊が現れた。それを見て頼朝は恐怖を覚え、身の縮む思いで立ち退いた。そして稲村ヶ崎まで来ると、今度は波間に子供の亡霊が見える。これが壇ノ浦に沈んだ安徳天皇であると悟るや、ついに頼朝は 失神し、落馬したというのである。

実際、頼朝は鎌倉幕府成立のために多くの血を流している。特に近親者への憎悪が激しく、情け容赦なく敵を潰すために、怨霊に取り殺されてもおかしくないという風に見られたのであろう。

<用語解説>
◆『吾妻鏡』の欠落部分
頼朝の死の前の3年分の記録が完全に欠落しており、これを頼朝の死と関連付けてさまざまな憶測が流れている。『吾妻鏡』自体には他にもいくつかの欠落部分が存在しており、いずれも鎌倉幕府にとって重要な出来事があった時期であるとされている。現在では自然散佚ではなく意図的に削除された可能性の方が高いという見解が主流という。

◆『北条九代記』
江戸時代、1675年刊の戦記物。北条時政から貞時までの9代にわたる鎌倉執権の時代の物語。浅井了意の作とされる。

アクセス:神奈川県鎌倉市西御門