嶋児神社
【しまこじんじゃ】
網野町には浦島太郎の原型である【浦嶋子】にまつわるさまざまの場所がある。嶋児神社はまさに漁港の突端にある。石造りの鳥居は幹線道路に覆い被さらんばかりの大きさなのであるが、神社そのものは恐ろしいぐらい小さい。
だが驚くのは、境内すら満足にないにもかかわらず、数々の巨大な奉納物が置かれているのである。特に度肝を抜かれるのは、脇に置かれた“亀にまたがり竜宮城へ行く浦島太郎”の石像である。その大きさは神社 の本殿より大きい。そしてこれらの奉納は全て長寿を祝い、祈願するものである。玉手箱を開けて老人になってしまったという悲劇的な結末にもかかわらず、なぜか浦嶋子は不老長寿の神様の扱いになっている。
この嶋児神社の周辺には、浦嶋子の行動範囲を知ることができるさまざまな言い伝えがある。神社の脇にある自然の干潟は【釣溜】と呼ばれ、ここに浦嶋子は 自分が釣った魚を放していたといわれる。ちなみにここで魚を捕ることは良くないこととされている(浦嶋子は不老長寿とともに豊漁の神様でもあるのだ)
さらにこの神社の対岸に当たる場所には【福島】と呼ばれる小さな島がある。ここにも浦嶋子の伝説があり、この 島で彼は乙姫と逢瀬を重ねていたという。さらに【西浦島神社】という神社があり、乙姫を祀っている。
この嶋児神社以外にも、網野町には浦嶋子を祭神として祀っているという神社がある。この網野でもっとも大きな神社である【網野神社】、そして山手の方に ある【六神社】。網野と一口に言っても、港を中心とするかなり限定された場所である。信仰の対象として拡大されなかったという面もあるが、逆に限られた地域にしか出現しない浦嶋子という実在の人物にはリアリティーというものを感じてしまう。
<用語解説>
◆丹後の浦嶋伝説
一般に知られている「浦島太郎」の物語は、室町時代に成立した『御伽草子』によるものである。その原型となったのが『丹後国風土記』の逸文であり、水江の浦嶋子なる人物の伝承が記録されている。『日本書紀』にも、浦嶋子に関する記述があり、竜宮へ行ったのは雄略天皇22年(476年)とされている。水江と呼ばれる地区は、網野町ではなく伊根町にあり、その地には浦嶋子を祭神とする宇良神社(浦島神社)がある。
◆網野神社
祭神は、水江日子坐王・住吉大神・水江浦嶋子神。日子坐王は9代開化天皇の皇子であり、丹波・丹後の国造りをおこなったとされる。浦嶋子同様“水江”の名が付いており、もしかすると先祖に当たる者という認識があったかもしれない。
◆六神社
祭神は、天児屋根命・浦嶋太郎・嶋子神・島垂根命・伊満太三郎(嶋子の弟)、綿積乙女命(乙姫)。
アクセス:京都府京丹後市網野町浅茂川