戸田観音 ガラッパ像
【とだかんのん がらっぱぞう】
戸田観音は、長禄3年(1459年)に宮之城城主である渋谷(祁答院)徳重によって建立された。創建の由来として、以下のような伝承が残されている。
渋谷徳重には美しい姫がいた。ある日、侍女7名と共に川遊びに出たのであるが、何かのはずみで船から川へ落ちてしまった。侍女が助けようとするが、姫は川の中に沈んでしまったまま浮かび上がってこない。責任を感じた侍女たちは全員川に身を投げてしまったのである。
数日して姫をはじめとして遺体が川から引き揚げられ、その供養にと徳重は、遺体の打ち上げられた淵のそばに観音堂を建てたのである。その時に、姫を死に追いやったものが川に住むガラッパ(河童)であるとみなし、それを懲らしめるために観音像の足元に像を置いたのである。さらに石碑を建て、二度とガラッパが悪さが出来ないようにしたとも言われる。そのせいか、この付近で溺死する者はいないという。
戸田観音には現在でもガラッパの像が安置されている(写真の像を見る限り、新しいものに作り替えて継承しているようである)。その姿は一般的な河童とは異なり、全身が鱗で覆われている。また手足を自由に伸ばしている姿となっているが、これは逆に、懲らしめのためにもがき苦しんでいるガラッパを表しているという。今でも戸田観音は水難除けのための参拝者が多い。
<用語解説>
◆渋谷氏
鎌倉時代の御家人を祖とする。現在の神奈川県東部に拠点を持っていたとされ(東京の渋谷の地名も彼らの名に由来する)、戦功によって薩摩郡を与えられると、宝治2年(1248年)に移り住んだ。戦国時代末に一族の入来院氏が島津氏に降伏し、その後血縁関係を結ぶ。徳重の系統である祁答院氏は島津降伏直前に滅亡。
アクセス:鹿児島県薩摩川内市中村町