親子地蔵/媛女渕

【おやこじぞう/ひめじょふち】

菊池市の主な官公庁施設が集まる隈府地区。その一画に建つ菊池高校の北西角にあるのが親子地蔵である。かつては親子を模した2体の地蔵が立っていたらしいが、いつしか子に当たる地蔵は行方知れずとなっている。

延享5年(1748年)、一人の女が放火の罪で火炙りに刑に処せられた。その時、女の母は悲しみのあまり、近くを流れる迫間川の淵に身を投げて死んだ。女の罪は重いが、子を思う母の想いの哀れさに、町の者は母が飛び込んだ媛女渕のすぐそばに親子の地蔵を建てたという。

この母が身を投げた媛女渕であるが、この名の起こりは、かつて菊池城が落ちた時に菊池の姫が城を脱出したが逃げ切れず、この淵に身を投げたことによるとされる。あるいは殿様に酌しようとした姫が放屁の粗相をしたため、その身を恥じて投身したとも言われる。いずれにせよ菊池家の姫の哀れな末路の伝説を残す地である。さらにこの淵には、有名な河童の伝説が残されている。

ある博労がある夜淵のほとりを歩いていると、突然河童が「相撲を取ろう」と淵から身を乗り出した。力自慢の博労は怖れることなく相撲を取りだしたが、淵から次々と河童が現れてきてキリがない。このままでは疲れ果ててそのうち川へ引き込まれると思った博労は待ったを掛けると、一旦家に帰って腹ごしらえをすると河童に言う。そして家に戻ると、仏壇に供えていた飯を食い、額に飯粒をくっつけた。河童が仏飯が苦手なことを知っての対策である。博労が家から淵に戻ってくると,河童たちは相撲どころか近寄りもしない。ただひたすら恐れおののくばかりで、とうとう淵の底へと逃げてしまった。そして以降、淵に河童の姿を見かけることもなくなったという。

<用語解説>
◆菊池氏と菊池城
菊池氏は平安時代からこの地にあった豪族で、南北朝時代に九州の南朝勢力の柱となって全国にその名を轟かせた。しかし南北朝合一以降は肥後守護職に任ぜられるも、家督争いから徐々に衰退が始まり、永正元年(1504年)に正統が絶える。その後他氏が菊池姓を名乗って統治をするが、最終的に天文23年(1554年)にそれも断絶する。
菊池城は南北朝の戦乱期に築城された山城で、長年菊池氏の居城となっていた。菊池氏が断絶すると、有力家老であった赤星氏・隈部氏が城主となるが、佐々成政の肥後入り後に起きた反乱の際に破却された。現在は城跡は公園化され、本丸跡地に明治3年(1870年)に菊池神社が創建され、南朝に与して奮戦した菊池武時・武重ら菊池氏歴代の当主が祀られている。

アクセス:熊本県菊池市隈府

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