殉教戦千人塚
【じゅんきょうせんせんにんづか】
寛永14年(1637年)に起こった島原の乱であるが、その発端は10月25日の島原藩内での代官殺害である。そしてそれに呼応するように、天草でも武装蜂起が起こる。それを先導するのは天草四郎時貞であり、島原藩と唐津藩(天草は当時唐津藩の飛び地の領地であった)の苛政に対する反乱のカリスマ的主導者とされた。
天草の一揆勢は11月14日に天草における唐津藩の拠点であった本渡に進軍し、ここで唐津藩と大規模な戦闘に入る。一揆軍は圧倒的な戦力で唐津藩軍を撃破、富岡城代だった三宅藤兵衛以下を殲滅させた(この戦いで近くの川が死体で堰き止められたと言われる)。
この「本渡の戦い」での両軍の戦死者をまとめて祀ったものが、殉教戦千人塚である。この地は本渡城跡に作られた殉教公園にあり、島内各地にあった殉教碑を合祀したものである。
その後一揆軍は富岡城を囲むが、落城させることが出来ず、また幕府軍(九州各地の大名の連合軍)が動き出したことを察知し、島原の一揆軍と合流すべく天草を離れる。そして37000人とも言われる一揆軍勢は原城趾に立て籠もり、幕府軍と一戦を交えるのである。
<用語解説>
◆島原の乱
1637-1638。島原・唐津藩の圧政(苛烈な年貢の取り立て)、キリシタン弾圧、帰農した諸国浪人の蜂起など、複合的な原因によって引き起こされた、江戸期最大の内戦。一揆に加わった37000人を全員殺戮(南蛮絵師であった山田右衛門作のみ助命)。幕府軍も1000~2000以上の戦死者を出す。また乱の勃発の責を負って、島原藩主・松倉勝家は改易・斬首、唐津藩は天草を召し上げられる(藩主・寺沢堅高は後に発狂・自害し改易)。
◆天草四郎
1621?-1638。本名は益田時貞とされる。数々の奇跡を起こすと噂され、16歳で島原の乱の指導者とされる(実質的な主導者ではなく、象徴的存在と考えられる)。原城趾に籠城するが、幕府軍総攻撃時に自害したとされる。
◆殉教公園
戦国末期まであった天草氏の居城・本戸城の跡に出来た公園。千人塚だけではなく、天草各地のキリシタン墓を集めた墓地もある。
アクセス:熊本県天草市船之尾町