善導寺
【ぜんどうじ】
特異な形をした岩櫃山の麓に善導寺はある。創建は貞治年間(1362~1368)、吾妻太郎が開基とされる。この寺には吾妻一族にまつわる怪異があると伝えられている。
永禄6年(1563年)、甲斐の武田信玄は上野国への侵攻を本格化させ、岩櫃山にある岩櫃城攻略を目指した。派遣されたのは主将の真田幸隆以下、約3000の兵であった。
堅城を誇る岩櫃城は力攻めでは落ちない。一旦和議を結び、幸隆は内応に応ずる者を求めて調略を図った。それでも事が上手く運ばないため、再度城を取り囲んで水路を断つ策に出たが、一向に埒が開かない。幸隆は、城内に水を運び入れる場所があるとにらんだ。そこで城との和議に際に交渉役に当たった善導寺の住職に尋ねたところ、水利の秘密をいとも簡単に喋ってしまった。武田勢は水路を断つと、たちどころに城内は動揺。ほどなくして城主が逃亡して落城となったのである。
それからしばらくして善導寺は火事を起こして焼け落ちた。人々は岩櫃城落城の祟りであると噂した。その後、善導寺では本堂を再築するたびに火事が起こった。記録によると慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)と5回も起きている。しかも出火の原因は不明であり“鳥が火のついた物をくわえて飛んできた”とか“火の玉が飛び込んでいった”とかいう怪異の噂が立つばかりであった。明治の大火の時も“本堂から火の玉がいくつも落ちてきたと思ったら、手の着けようもない猛火となった”という話が伝わっているという。
現在は明治の大火以来の本堂が新しく建てられている。
<用語解説>
◆岩櫃城の落城
この善導寺の怪異の伝説では、武田氏による岩櫃城落城の際の城主の名が“吾妻太郎”となっているが、史実としては“斎藤憲広”である。
南北朝時代に、岩櫃城は一度落城しており(ただし戦国時代のものとは異なる規模であったとされる)、その時の城主が“吾妻太郎行盛”であったため、話が混乱しているものと考えられる。ただ、この吾妻行盛の忘れ形見の嫡子が成人して斎藤姓を名乗って岩櫃城を奪回し、以降代々城主となっているので、ある意味、吾妻氏の城であると言ってもおかしくはない。
アクセス:群馬県吾妻郡東吾妻町原町