養行寺 静御前の墓

【ようぎょうじ しずかごぜんのはか】

養行寺は、厩橋(前橋)藩初代の酒井重忠の母が、生国の三河に建立した一寺から始まる。寺は重忠の転封に従い、三河から武蔵川越、さらに上野厩橋へと移転、現在地に置かれた(寺のある地が三河町と称するのもこのためらしい)。

前橋には、なぜか静御前にまつわる伝承が残されている。『吾妻鏡』によると、義経と吉野で別れた後に捕らえられて鎌倉に送られた静御前は、鶴岡八幡宮で白拍子の舞をするように命じられる。その時に朗じた歌に頼朝は激怒したが、妻・政子らの取りなしにより放免されたとされる。そしてその後の消息は不明である。

前橋の伝承は、おそらくその放免後のものであると推測される。奥州にいるという義経を慕って静御前は旅立つ。しかし前橋の地に辿り着くと病を得て、結局この地で亡くなったという。

養行寺にあるのは、墓というよりは供養塔に近いものである。寺の変遷から考えても、おそらく江戸時代以降に建てられたものであると考えてよいだろう。

<用語解説>
◆静御前
生没年不明、出処不明。白拍子。住吉大社で祈雨の舞をしたところを源義経に見初められ愛妾となる。『吾妻鏡』では、義経が頼朝と対立した後より義経と共に行動を共にする。鎌倉方に捕らえられた時には義経の子を宿していたが、男児であったために殺される。しかし静御前の登場する記録は『吾妻鏡』に限定されており、実在を疑問視する説もある。

◆酒井重忠
1549-1612。徳川家譜代の家臣。徳川家康の関東移封の際に、川越に1万石の所領を得る。関ヶ原の戦いの後に厩橋(前橋)3万3千石を領する。子孫には酒井忠世以下、大老・老中などの幕府の中枢を担う者を輩出した。

アクセス:群馬県前橋市三河町