真如堂 鎌倉地蔵

【しんにょどう かまくらじぞう】

真正極楽寺。通称、真如堂と呼ばれる古刹が北白川の辺りにある。かなり広い境内であるが、その中でも一番目立つのが三重塔である。そしてその脇に少々古びた地蔵堂がある。ここに安置されているのが鎌倉地蔵という、大変な奇縁を持つ地蔵である。

実はこの地蔵は【殺生石】でできている。【殺生石】といえば、九尾の狐が退治された成れの果てであり、那須の地にあって絶えず毒煙を吐き続けたという、あの怪石中の怪石である。しかし、室町時代の頃にその祟りを鎮めるために玄翁和尚によって叩き割られた。そしてこの【殺生石】の破片は全国各地、北は福島から南は九州まで飛び散ったのだが、玄翁和尚はその残った破片の一部で【殺生石】によって亡くなった者を供養する意味で一体の地蔵を造ったという。それがこの“鎌倉地蔵”なのである。つまり日本でただ一つ【殺生石】というとんでもない材質の石によって造られた地蔵であり、全国に点在する【殺生石】の中でも最も素性の明らかな破片であると言えるだろう。

この【殺生石】でできた地蔵がなぜ“鎌倉地蔵”と呼ばれるのかというと、この地蔵が最初は鎌倉に安置されていたためである。ところが、江戸時代のはじめに幕府の作事方大棟梁である甲良豊前守の夢枕にこの地蔵が立ち、京都の真如堂へ衆生済度のために移転させよという。もとよりこの地蔵を信仰していた豊前守はただちにこの地蔵を京都へ移し、この逸話にちなんで“鎌倉地蔵”と呼ばれるようになったという。

<用語解説>
◆真如堂
一条天皇の生母である藤原詮子(藤原道長の姉)によって興された寺院であり、安倍晴明とも非常にゆかりのある寺院である。その後、応仁の乱の時には東軍の陣所となって戦火に焼かれ、京都の各地を転々と移動する。元禄6年(1693年)に現在地に移転された。衆生済度、特に女人救済の寺として名高い。

◆殺生石
白面金毛九尾狐が倒され、化身したとされる石。石から毒を発し、近寄る鳥獣を殺し、周囲には草木一つ生えない。至徳2年(1385年)に玄翁和尚が打ち砕き、その破片は「高田」と呼ばれる地域に飛び散ったとされる。現在も栃木県那須町にある。

◆玄翁
1329-1400。曹洞宗の僧。殺生石を打ち割った伝承から、金槌のことを玄翁と呼ぶようになったという。

◆甲良豊前守
初代・宗広(1574-1646)は日光東照宮造営の大棟梁となる。以降、代々の当主が豊前守を名乗る。真如堂が現在地に置かれた頃の当主は3代目・宗賀。

アクセス:京都市左京区浄土寺真如町