甲弓山鬼神塚

【こうきゅうさんきしんづか】

鯖江藩5万石は、享保5年(1720年)に立藩、以降明治維新まで代々間部家が藩主を務めた。初代藩主の詮言の養父(実兄)は徳川6代将軍家宣・7代家継の側用人として権勢を持った間部詮房であったが、将軍が8代吉宗に代わるとすぐに疎んじられ、上州高崎5万石から越後村上5万石へ移封。さらにその4年後に鯖江に移封となったのである。しかも鯖江は元は幕府領で城もなく、人家がまばらにある程度の寒村。そのような土地に新たに藩をつくり移封させたのは、左遷以外の何ものでもなかった。

初めから経済的に逼迫した状況の鯖江藩であったが、享保19年(1734年)に重大事件が起こる。藩の勘定奉行であった平柳杢右衛門が年貢札米で不正を働いたという訴えが、上役の鈴木某(立藩当時の記録では、江戸詰家老の一人に鈴木姓の者がある)からなされたのである。杢右衛門は直ちに捕らえられたが、本人には全く身に覚えのない罪であると主張し、取り調べ以降は黙して何も語らない。最終的に杢右衛門は斬首となり、嫡男の杢之助も永牢の処分を受けて半年後に牢死、平柳氏は家名断絶となったのである。

それから100年ほど経った頃。当時の藩主・間部詮勝は不思議な夢を見た。礼装をした侍が枕元に現れ、平柳杢右衛門と名乗るのである。それが連夜に及び、詮勝は不審に思い、その名をたどってかつて藩で起こった不正事件の存在を知る。そこで直々に事件の再調査を命じたところ、杢右衛門の無実が判明した。これを受けて詮勝は、杢右衛門を陥れた鈴木某の子孫を領外追放に処し、平柳氏再興を命じて杢右衛門の妻の実家当主の弟に平柳家を継がせた。さらに自ら法号を書き与えて三日二夜に渡る法要を営んで供養すると共に、藩の評定所の前庭に石祠を建てて祀ったのである。これら一連の出来事は天保11年(1840年)から翌年に掛けてのことと『日記』に記録されている。

この石祠が甲弓山鬼神塚であり、その後も評定所跡地にあったとされる。昭和38年(1963年)その地に新たに消防署が建てられ、署長がこの祠の存在と由来を知って、命日に法要を執り行ったとの記録があるが、その後消防署が移転となり一時所在不明となった。そして昭和51年(1976年)に有志によって祠は現在地に移設された。現在は西山公園の南東の一角に置かれており、今も現地で法要を執り行うなど丁重に祀られている。

<用語解説>
◆間部詮房
1666-1720。甲府藩士の子であるが、猿楽師の弟子となっていたところ、藩主徳川綱豊の小姓に抜擢される。その後綱豊が徳川6代将軍家宣となると幕臣となり、大名に列する。家宣がおこなった“正徳の治”の推進者として側用人の身分で幕政を主導する。7代家継が夭逝して紀州藩主・吉宗が将軍となると失脚。要地である上州高崎5万石から越後村上5万石へ移封、その地で没する。死没直後に間部家は村上から、城もない越前鯖江へ転封となる。

◆間部詮勝
1804-1884。鯖江藩7代藩主。11歳で鯖江藩主となる。11代将軍家斉の側近として老中となるが、天保の改革を進める水野忠邦に疎まれ罷免。しかし安政5年(1858年)大老・井伊直弼の要請で幕閣に復帰。老中首座となり、日米修好通商条約の締結や安政の大獄を主導し、その辣腕から“間部の青鬼”と怖れられる。しかし井伊直弼と対立して免職。その後老中首座時代の失政を理由に隠居謹慎、藩も1万石の減封処分を受ける。

◆『日記』
鯖江藩の公式記録として記された文書。享保11年(1726年)から明治3年(1870年)までの藩の行事、藩士の勤務や日常、町や村の出来事、災害や気候が簡潔に記され、その数は240冊にも及ぶ。その他藩政に関する文書と共に『間部家文書』として市の文化財に指定されている。

◆西山公園
鯖江市中心部に近い長仙寺山一帯に広がる歴史公園。7代藩主・詮勝が安政3年(1856年)に“嚮陽渓”と命名し、庶民にも開放した庭園が元となっている。「日本の歴史公園100選」に指定。

アクセス:福井県鯖江市長泉寺町