積善院 人喰い地蔵
【せきぜんいん ひとくいじぞう】
かつて東山丸太町一帯は“聖護院の森”と呼ばれる大きな森であった。今ではその“聖護院”の名だけが残るだけで、森どころかまとまった雑木林すら周囲には見当たらない。この一角には、修験道の一大本拠地である聖護院門跡がある。そしてその広大な敷地の東端にあるのが、積善院準提堂である。
この境内の奥に、他の名もない地蔵と共に安置されているのが【人喰い地蔵】である。この地蔵であるが、もとよりこの積善院に安置されていたものではなく、聖護院の森の中に野ざらしの状態であり(場所は現在の京大病院の付近であると言われている)、明治になってから積善院に安置されて現在に至っている。
無病息災の効験があるとされており、「人喰い」の名前とは裏腹な非常に柔和な地蔵である。それもそのはずで、“人喰い地蔵”とは通り名であり、実際には正式な名前が付いているのである。
保元元年(1156年)に起きた保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇は、世を怨むあまり、生きながらにして魔界の住人となり、死んだ後には京の都に悪疫・大火・大乱を起こす魔王となった。そのような災厄をもたらす崇徳院の霊を慰めるために、京の町の人々は一体の地蔵を造り、聖護院の森の中に祀ったという。それがこの地蔵なのである。
それ故この地蔵の正式名称は<崇徳院地蔵>という。ところが、この“すとくいん”という名前がいつの間にかなまってしまってできた新しい名前が“ひとくい”地蔵という訳なのである。
<用語解説>
◆聖護院
白河上皇の熊野参詣の先達を務めた増誉大僧正が「聖体護持」の名を取って賜ったのが始まり。増誉はその後、修験者の統括を命ぜられ、聖護院は修験道の本拠、山伏の寺となる。積善院は修験僧の統括を門跡に代わっておこなった僧坊であり、準提堂とは明治初年に合併した。
◆崇徳院
1119-1164。第75代天皇。保元の乱で敗れ、讃岐に配流される。赦免が叶わないことを知り、大魔縁となることを宣言し薨去。最終的に御霊が京都に戻るのは、白峯神宮が京都に創建された明治元年(1868年)である。
アクセス:京都市左京区聖護院中町