寒戸の婆

【さむとのばば】

『遠野物語』8話にある、「神隠し」と題される話に登場するあやかしが寒戸の婆である。

……寒戸のある家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方知れずとなった。三十数年後、親類などが家に集まっていると、老いさらばえた姿でその女が戻ってきた。どうして戻ってきたのかと尋ねると、女は人々に会いたかったからだと答え、また去って行った。その日は風が激しかったため、遠野の人は、風の強い日は「寒戸の婆が帰ってきそうな日」と呼ぶそうである。……

上の話を柳田國男に語ったとされる佐々木喜善が、昭和5年(1930年)刊の『民俗文芸特輯』第2号に、ディテールの異なる同じ筋の話を発表している。

……松崎村の登戸(のぼと)というところに茂助の家があった。その家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方不明となった。幾十年経ったある風の強い日、家の人に会いたくなって、山姥のような姿になった娘が帰ってきた。肌に苔が生え、爪は二三寸に伸びたような姿であった。娘は一晩泊まると帰って行ったが、それから毎年その時期になると山の土産を持って訪れた。家の者も餅を持たせてやったりしていたが、来る時の数日が大風になるために村方より掛け合いがあって、山姥が来ないようにまじないをおこなった。その後、その山姥が来ることはなかったという。

大風のある時は「今日は、登戸の茂助婆様が来る日だ」と老人が言っていたのを覚えている。山の物に攫われた娘が老齢になって、里に帰っても安心だとなった時初めて里帰りを許されて、人々に会いに行けるのであろう。……

実は、遠野には“寒戸”という地名はない。しかし、柳田國男の著作があまりにも有名になりすぎたために、いつしか“寒戸の婆”の名が正式なものになったようである。寒戸の婆にまつわる伝承は口碑だけだったが(佐々木喜善の作品によると「婆が来ないように封じた石塔が六七年前まであったが洪水で流された」とある)、現在は『遠野物語』の観光名所として石碑が、登戸橋のたもとに置かれている。

<用語解説>
◆『遠野物語』
明治43年(1910年)に柳田國男が、遠野出身の佐々木喜善より聞いた地元の伝承などを編纂した、民俗学の嚆矢となる著作。自費出版で350部のみの発行であった。
“寒戸の婆”という名称は、柳田が聞き間違えたというより、故意に変更したのではないかとの説が有力である。

アクセス:岩手県遠野市松崎町光興寺