杵の宮

【きねのみや】

現在の杵の宮は、綾部藩・九鬼氏の崇敬を受け、綾部の総氏神とされた若宮神社の境内社となっている。かつては藤山の東にある本宮山にあって九鬼氏の崇敬を受け、藩祖九鬼隆季を祀る九鬼霊社が隣に設けられるほどであったが、明治時代に合祀、若宮神社境内に移されたという。本来の御神体は、まさしく餅をつく時の杵である(実際の杵は、九鬼氏と懇意であった植芝盛平に譲られ、茨城県にある合気神社に納められたとも言われるが、詳細不明)。この杵が御神体となった経緯には、実に不思議な話が残っている。

藤山の南東側、現在は府営団地が建ち並ぶ辺りはかつて大きな池であったという。ある時、一人の行商人が近くを通りがかると、雉が罠に掛かっていた。良い獲物だと思って失敬したが、少し気が引けたのか、代わりとばかりに罠のところに自分の売り物を置いて立ち去った。間もなく、罠を仕掛けた者が戻ってきたが、罠にある物を見てびっくり。まさかこんな物が罠に掛かるわけがなく、しかも山を越えたところにある大原神社の氏子にとっては禁忌の品物だったので、慌てて池に捨ててしまったのである。

それから数年経ち、例の行商人がまた綾部を通りがかった。すると里の者が悲しみに打ちひしがれている。前に通った時からの変わりように、行商人は訳を尋ねた。すると、数年前から突然“池の主”と名乗るものが現れ、年に1回人身御供を要求し、やむなくくじで生贄となる娘を決めているのだという。“池の主”は頭が鬼瓦のようで、胸の辺りから翼のようなものが生えている魚の化け物らしい。行商人はその姿に思い当たるところがあった。しかも“池の主”が現れた時期にも心当たりがあった。正体を確信した行商人は、その化け物退治を名乗り出た。そしてとりあえず武器として杵を借りると、生贄となる娘のそばに隠れて待った。

やがて夜になると、池から巨大な化け物が現れた。行商人はその姿を見るなり飛び出すと、いきなりその頭目がけて杵を振り下ろしながら怒鳴った。
「きさま、俺が罠に置いていった乾鮭じゃないか。しかも値段がたったの3分5厘。安物のくせに人を取って食うとは、身の程を知れ!」
化け物は一瞬きょとんとしたが、正体をばらされた途端に神通力を失ったのかみるみる小さくなっていき、元の乾鮭の形に戻っていった。勢いづいた行商人はこれでもかと杵で殴り倒し、とうとう乾鮭はばらばらに砕けてしまったのである。

その後、行商人はまた元のように商いをしに土地を離れ、里の者は杵を御神体として社を建てた。そして元凶となった池は、水路を造って水を抜いて更地にされたという。

<用語解説>
◆若宮神社
治承年間(1177~1180年)に当時の丹波国司であった平重盛によって勧請された。その後、九鬼氏が崇敬。藩庁の移転に伴い、藩庁よりも高い位置にあたる現在地(藤山)に移転する。

◆九鬼隆季
1608-1678。九鬼水軍で有名な九鬼守隆の三男。父の死後、弟と家督争いを起こしたため、寛永10年(1633年)に伝来の所領であった志摩国鳥羽から綾部2万石に転封(宗家を継いだ弟も三田藩に転封)。九鬼氏はその後幕末まで綾部藩を領有する。

◆大原神社
安産の神として信仰を集め、産屋が残されていることでも有名。仁寿2年(852年)に現在地に遷座とされる。その後戦火で焼失するが、綾部藩九鬼氏によって再興される。この遷座の際に、この土地を数千年来守る金色の鮭が現れて神託したため、この神社の氏子は鮭や鱒を食べることを禁忌としている。

アクセス:京都府綾部市上野藤山

洛中

前の記事

宴の松原
群馬

次の記事

長松寺