酒折宮
【さけおりみや】
甲府市街地の東の外れ、甲州街道そばに酒折宮がある。祭神は日本武尊、山梨県内では唯一『古事記』『日本書紀』に記された古社とされる。
日本武尊の東征に関して、その帰路は『古事記』と『日本書紀』ではかなり異なった道を通っている。『古事記』では、相模の足柄峠から甲斐に入り、さらに信濃を通って尾張に到達したとされる。一方『日本書紀』では筑波から甲斐に入り、さらに武蔵から碓氷峠を通過、信濃を経由して尾張に到達したとされる。いずれにせよ日本武尊は甲斐国に立ち寄って東征を終えているが、この甲斐国での行宮となった地が酒折宮の始まりであるとされる。
命は初代甲斐国造である塩海足尼を行宮に召し出し、出立の時になって「後に御霊となってこの地に鎮座しよう」と言って燧石を足尼に授けた。足尼はそれを御神体として奉じて創建されたのが酒折宮であるとされる。 さらにこの行宮で、日本文学史上重要な出来事があったとされる。滞在してた日本武尊は不意に「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と歌を読んだ。これに対して御火焼之老人(焚火番の老人)が「日々並て 夜には九夜 日には十日を」と続きを詠んだのである。このように歌の前半と後半を別の人が詠み継ぐという形式が初めて成立したことから、後世<連歌発祥の地>とされ、多くの文人墨客がこの地を訪れ参拝している。
<用語解説>
◆日本武尊の燧石
日本武尊は東征に先立って、伊勢にある叔母の倭姫命の許を訪れ、「危急の時にこれを使いなさい」と神宮にあった草薙剣と袋を授かる。
駿河に赴いた日本武尊は賊の奸計によって野原で火攻めに遭う。絶体絶命となった命が袋を開けるとそこに燧石が入っており、それを使って迎え火を起こして迫ってきた火を退けた(『古事記』ではここで草薙剣で周囲の草を薙ぎ払っている)。御神体となったのは、この時に使われた燧石であるとされる。
◆塩海足尼
第12代景行天皇の御代に甲斐国造(初代)となった人物。美和神社や金櫻神社など、甲斐国内の古社の創建伝説にたびたび登場する。一説によると、日本武尊の歌に応じた“御火焼之老人”はこの塩海足尼本人であるともされる。
アクセス:山梨県甲府市酒折