愛洲の里 牛鬼像

【あいすのさと うしおにぞう】

南伊勢町役場の近くに「愛洲の里」という観光施設がある。その施設の裏山にあたる場所には、かつて愛洲氏の居城であった五ヶ所城があった。この愛洲氏の滅亡にまつわる奇怪な伝説が残されている。

この五ヶ所城の近くにある切間の谷という場所に洞穴があり、そこに牛鬼という化け物が棲んでいた。人間の身体だが頭部だけが牛そのものであったとか、毎月ごとに牛一頭を平らげるからとか、そういうことで名前が付いていたらしい。牛鬼は人間の言葉を喋るし、また神通力で一日千里を走ることもできたという。

ある日牛鬼は洞穴を出て、五ヶ所城の愛洲の殿様、愛洲重明の弓の稽古を向かいの西山から見物していた。ところがこの殿様が何を思ったのか、弓の名手であったのに、突然牛鬼の方に矢を放ったのである。矢は牛鬼の胸に突き刺さり、そのまま下の畑に転がり落ちてしまったのである。

牛鬼は叫び声を上げ、そのうち黒い煙があたりに立ちこめだした。それを吸ってしまったのが、殿様の奥方である。たちまち倒れた奥方は、そのまま不治の病にかかってしまった。さらには不用とばかりに、殿様は奥方を実家である北畠の家に送り返してしまい、とうとう離縁までしてしまったのである(あるいはお気に入りの白拍子を城に招き入れるために追い出したとも)。この仕打ちに耐えかねた奥方は実家で自害をしてしまう。

この愛洲の殿様の仕打ちに激怒したのが、奥方の実家の北畠家である。娘を蔑ろにされ、しかも伊勢国司のとしても恥をかかされたに等しい。ただちに五ヶ所城に兵を送り、あっという間に城を攻め落としたのである。天正4年(1576年)、こうして愛洲氏は滅んだとされる。愛洲の里からさほど離れていない場所には、愛洲氏一族の墓所とされる塔頭と呼ばれる場所があり、現在でも20基以上の五輪塔などが整然と並んでいる。ただ最後の城主となった殿様・愛洲重明だけは城から逃げ落ちた先で自害して果てたとされ、志摩市浜島町迫子にある呑湖院に墓がある。

牛鬼は五ヶ所城を守護する存在であったと言われ、矢で射られて死ぬ間際にも「わしを助けておけば、城は繁盛したものを」と言って息絶えたとされる。

この愛洲の里の敷地内には、この牛鬼を慰霊するために造られた牛鬼の石像がある。伝説とは逆に、石像は人に近い顔をして、身体が牛のようになっている(背後には牛の尾まで浮き彫りされている)。かなり古い石像であり、このような怪物の石像が残されているのは非常に珍しい。

<用語解説>
◆愛洲氏
伊勢国五ヶ所浦にあった在地領主。中世以降その名が記録に登場しており、主に水軍を率いた活動をしている。南北朝時代には南朝に属して、伊勢国司の北畠氏に従っていた。また室町時代には船を使って交易(あるいは海賊行為)に従事し、遠くは明まで赴いていた記録が残る。一族出身者で最も有名な人物に、陰流(後の新陰流・柳生新陰流の源流)の創始者である愛洲移香斎久忠(1452-1538)がいる。
なお愛洲氏の滅亡については、天正4年説を採っているが、長禄3年(1459年)との説もある。

◆北畠氏
元来公家であったが、南北朝時代に南朝方に属して伊勢国司となると定住し、その後に戦国大名として南伊勢地方を中心に勢力を拡大する。しかし戦国末期になると尾張の織田信長の侵攻を受け、最終的に信長の次男・信雄を養子とし、天正3年(1575年)に信雄が家督を継ぐ。さらに翌年に、先代の北畠具房以外の主立った一族が誅殺される事件があり、これによって北畠氏は完全に織田家に乗っ取られることとなった。
以上のように、愛洲氏滅亡の戦いは北畠信雄の命によるものであり、伝説にあるような事情はほぼ関係がないと考えてよい。