弁慶の墓
【べんけいのはか】
平泉は奥州藤原氏の本拠地であり、源義経主従終焉の地でもある。国道4号線沿いの、中尊寺へ行くための駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。
義経を庇護していた藤原氏の当主・泰衡が、源頼朝の圧力に屈して義経を自害に追い込んだのは、文治5年(1189年)のことである。数百騎で衣川館へ攻め込んだ泰衡の手勢に対して、義経は抵抗することなく持仏堂に籠もり、妻子を手に掛けると自害して果てた。わずかにいた義経の家来も全て討ち取られたという。
伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだとされる。これが有名な“弁慶の立ち往生”である。
<用語解説>
◆藤原泰衡
1155(1165)-1189。奥州藤原氏4代当主。父・秀衡のあとを継ぐが、その時に異母兄の国衡と義経と共にまとまり、源頼朝の攻撃に備えるように遺言される。しかし頼朝による再三の圧力に屈し、義経を討ち取る。さらにその数ヶ月後に頼朝の奥州征伐で国衡が敗死すると、戦わずして平泉に火を放って逃走。さらに助命の嘆願を頼朝に提出するが、家臣によって裏切られて殺害された。その首は、眉間に八寸釘を打たれて柱に掛けられ、最終的に中尊寺金色堂内に首桶に入れられて安置された。
アクセス:岩手県西磐井郡平泉町平泉